・百合 不倫

私の心の中にはいつもあなたがいる。

「君は変わらないね」

揺れるカーテンを背中に髭切がゆったりと微笑む。午後の光が彼女の金糸の髪を柔らかく透かしている。体のラインが隠れるゆったりしたチュニック、その下の肌は記憶の中よりいくぶんかみずみずしさを失っている。子供を産んだ女特有のたるみが彼女の美貌に年月を感じさせていた。

「そうかな」

変わらないわけがないのに。5年も経てば人は変わる。髭切が私と別れて男と結婚して子を成したように、私も変わらざるを得なかったのだ。二人で歩く不確かな未来を、甘く幼い幻想を消し去って現実を見るために。私はがんばったよ。失恋の痛みを忘れるためにもがむしゃらに働いて、自分ともうひとり養えるくらいの経済力も地位も手に入れたよ。それでも失ったものは帰ってこない。

「ずっと君のことを考えてた」

体重を受け止めて沈みこむソファ。広い間取りの一軒家。子供をあやすための回る天蓋付きの遊具。幸せな夫婦の住処に、異物である私という存在。髭切の薬指にあるはずの指輪は見当たらなかった。この日のためにわざわざ外したのだろうか、それとも、旦那への愛情はとうの昔に尽きていたのか。赤子は隣の部屋で寝息をたてている。男が働きに出ている間に昔の恋人を誘い込む髭切は、絵に描いたような悪女に思えた。

「君のことを忘れない日はなかったよ」

温かい指が触れる。懐かしい蜂蜜色の瞳。私はこの人のことがとても好きだった。片時も離れては生きていけないと思っていた。なめらかな生地のカーディガンが肩から落ちる。離れていた数年間を巻き戻すようにキスをした。

「私もずっと覚えてた」

隣の部屋で赤ん坊が眠っている。
体をまさぐり合う女ふたりが、真昼の影を背負って暗く重なる。髭切の体は知り尽くしていたはずなのに、薄い服を剥がすと、見覚えのない豊かな膨らみがまろび出てきた。私の動揺を悟ったかのように彼女は微笑む。

「子どもを産んだら胸がぱんぱんになってね。いまは母乳が出るんだよ」

促されるままに、大輪の花の蕾のような乳首にくわえつく。こりこりとしたそれを甘く歯で挟み、ゆっくりと舐めると、私の頭を抱く指に力が入った。白い脂肪の塊を手で包みながら、慎重に先端を吸う。簡単にはいかなかった。何度も角度を変え、深さを変え、しゃにむにちゅうちゅうと吸い続けると、わずかに舌の上に甘みが広がる。生温い女の味。赤ん坊に栄養を与えるための体液を私が奪っていると思ったら、ひどく残酷で虚しい気持ちになった。
上目遣いに見上げた髭切は聖母のように微笑んでいる。透ける金色の髪。ほんのりと差した頬の赤み。しなやかな指先が私の髪をくすぐる。母親と子供のように戯れながら、私は悲しくてたまらなかった。子を育む母乳、血液と等しいくらい大切なそれを飲ませてくれる髭切。でも彼女は、男の種を受け入れて異物を孕んだ。新しい細胞を産み出して、雌の機能の一環として乳を作る。私が関与できる要素なんて一つもなかった。自然の摂理から弾き出された己を深く認識するだけだ。
どのくらい経ったのだろう。視界の端でカーテンが揺れた。か細い泣き声が静寂を破った。ともすれば子猫のようにも聞こえる、母を呼ぶ弱々しい生物。離しかけた体を髭切の腕が捕まえる。素肌の胸を密着させて、食い入るような瞳が私を射る。母の顔でも女の顔でもなく、恐ろしいくらいに美しい、獣の顔をしていた。

「僕が人生で一番愛している人は君だけだよ」

獣は私に口付ける。泣く声をかき消すように両の手のひらが耳を塞いだ。母性も道徳も、人間らしい価値観すべてかなぐり捨てれば私たちは共に生きられるだろうか。

「私も愛している」

赤子の泣く声が大きくなる。窓のすきまから入る日差しが曇った。湿った空気はじきに雨が降るのだろう。髭切はローテーブルの上に畳んだ服を取り、下着はつけずにチュニックだけ被って部屋を出た。騒音と共に戻ってきた彼女にもう先ほどの鋭利な眼差しはなかった。
よしよし、とあやしながら、さっきまで私がくわえていた乳房を露出する。なんのためらいもなく赤子は濡れた乳首に吸い付いた。懸命に頬を動かし母の乳を飲む姿は、はかなげな泣き声とは裏腹に、生命の力強さを放っていた。

「髭切に似て可愛い赤ちゃんだね」
「ふふ。そうかなあ。最近首が座ってきたんだよ」

手を振ると赤ん坊はちいさく笑った。歯のない唇が弧を描き、細くなった目元が私を見つめる。心臓を突かれたような心地に思わず涙ぐみそうになった。

「また会いにきてね。この子もきっと喜ぶよ」

ミルクの甘い匂いが漂うリビングで、母と子が私に微笑みかける。傾いた太陽を背負う彼女たちに、ゆっくりと首を振った。

「もう来ないよ」

最初から分かっていたんだ。この家に招かれたときから間違いに気づいていた。髭切は泣きそうな笑顔を張り付けたまま、そっか、と呟いた。

「私のぶんまでその子を愛して」

うつむいた喉から押し殺した嗚咽が響く。赤ん坊は不思議そうに母親の声を聞いていた。
この邂逅はただの事故。巡りめぐった運命の交叉点、ほんの些細な、そして決定的に戻らない、獣たちの命日。
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