・現パロ百合

 生まれ育った町で迎える正月は、新品のようでいて懐かしい匂いがする。ストーブの灯油が鈍い音を立てて部屋を暖め、お餅の焼ける香ばしい匂いが家中に広がっていく。過疎化の進む田舎町は時折車の通る音がするのみで、しんと静まり返った穏やかな正月だった。
 数年ぶりの帰省を髭切に知らせたのは気が向いたからだ。十代の濃い時間を共有した親友とはいえ、別々の進路を歩むに従い距離が開き、長らく会う機会もなかった。別離の時間が友情に影を落とすなんて、当時の私は考えもしなかっただろう。永遠に心を分かち合える特別な人だと本気で信じていた学生の頃が懐かしい。生活が変わってしまえば価値観も変わるのだと、大人になった私は薄々勘付いていた。

『待ち合わせはいつものファミマの前でね』

 初詣に行こう、と誘ってきたのは髭切のほうだ。といっても近所のちいさな神社に歩いてお参りするだけ。スマホと財布だけ鞄に詰め、昔よく使ったコンビニへ向かう。冬の朝は空気が澄んでいて、ぴりっと体が引き締まる思いがした。
 駐車場の端に彼女は立っていた。ベージュのコートに白いマフラーを巻き、私を見つけると笑顔を華やかせて手を振った。

「久しぶり。あけましておめでとう」
「あけましておめでとう。突然の連絡だったのに都合を合わせてくれてありがとうね」
「ううん。僕は正月休み取れたからね、大丈夫だよ」

 数年前と変わらないのんびりした声。柔らかな髪が日の光を浴びて輝いている。はい、と手渡されたのは馴染みのある缶コーヒーだった。買ったばかりらしく、かじかんだ手のひらには熱い。

「ありがとう」

 熱いコーヒーは私たちが学生の頃によく飲んだ、砂糖たっぷりの甘いカフェオレだった。一口飲んでゆっくりと食道を流れていく感触を味わう。あの頃の自分はよくこんな甘いものをごくごく飲めたな。

「仕事はどう?」
「なんとかやってるよ。髭切は転職したんだっけ」
「うん、滑り込みで公務員試験受かったんだ」
「すごいじゃん、おめでとう」

 神社に向かう緩やかな坂道を下りながら、数年間の互いの近況を話した。鳥の鳴く声、民家の椿、遠くに見えるドラッグストア。土地の開発に従い少しだけ広くなった道を二人並んで歩く。なんにもなくて素敵なところだと思う。

「新年の挨拶回りは終わった?」
「旦那の家には行ってきたよ」

 髭切が結婚した話は聞いていた。
 2年前、両親との電話の最中にふと、「近所の髭切さんが結婚したんだよ」と、まるで今夜の晩御飯でも告げるようにあっさりと報告されたのだ。そうなんだ、と答えた。そうなんだ。本当にただそれだけ。相手は誰? とも挙式は? とも聞かなかった。ほんの少しでも詳細を知れば、現実感が形を持って私を殴り、積み上げてきたなにかが壊れてしまうと確信していた。
 平静を装って暮らすのに半年かかった。半年経った頃、ようやくラインの友達欄から苗字の変わった髭切を選び、「結婚おめでとう」と一言だけ送信した。しばらく後に赤いマークが返信を知らせていたけれど、どんな内容だったのか知らない。未読のままトーク履歴は削除した。

「結婚すると向こうの両親との付き合いが大変だね」
「まあね、お互い様なんだけどさ」

 けれど今、さして不満なさそうに微笑む髭切を隣に見て、こんなにも穏やかな気持ちでいる。かつて嫉妬と恋慕で荒れ狂った心が嘘のように凪いでいる。もう髭切は私の一番の親友でも、秘めたる片想いの相手でもなかった。あんなに好きだったのに、どこの馬の骨とも分からない男に奪われたのが憎くてたまらなかったのに、いつの間にか私の恋は終わっていた。
 神社が近くなるにつれ往来の道に人が増えてきた。鈴を鳴らす音や賑やかな子供の声が耳に届く。こぢんまりとした神社だが地元の住人には愛されているのだ。私も小さい時に母親に手を引かれてきたのを思い出した。

「懐かしいなあ、中学生のときお祭りきたよね」
「君にとっては懐かしいかもしれないけど、僕は去年の縁日にも初詣にも来たんだよ」

 髭切もきっと子供が産まれたら手を引いて連れてくるのだろうとたやすく想像できた。飲み干した缶コーヒーをゴミ箱に捨て、参拝の列に並ぶ。

「私、いつもお祈りしたいことが多くて、時間いっぱい使っちゃうんだ」
「あはは。例えばどんなことを?」
「まず、一年間健康で過ごすことでしょ。あと仕事も出世したいし、プライベートも充実させたい。恋愛も素敵な人に出会いたい」
「欲張りで君らしいね」
「髭切は?」
「僕はそうだなあ……家庭円満とか?」
「旦那さんのこと好き?」
「んー、大切だとは思うよ」
「私のことよりも?」

 聞いてすぐに後悔した。なんと答えられても耐えられないと思った。ちょうど私の後ろには太陽が差し、振り向いた髭切がまぶしさに目を細めたようにも、くしゃりと笑顔を浮かべたようにも見えた。

「君に会えて良かったと、ずっと思っているよ」

 忘れていたはずの恋心がぴくりと跳ね、すぐに脈を失くした。胸を焦がすような恋慕は去り、燃え殻の中から新しく芽吹いた愛が腕を広げている。ゆるやかで、ぬるくて、抱き締めるためではなく優しく肩を叩くための腕を。
 とうとう私たちの番が巡り、お賽銭を放り投げてお参りする。さっき話したお祈りしたいことの半分も伝えず、ただ一年幸せに過ごせますようにと願った。

「缶コーヒーのお礼になにか買ってあげるよ」
「わ、ほんと? 甘酒がいいな」
「髭切ってほんと甘いもの好きだよね」

 ベンチに腰かけて二人並んだ瞬間、ほんの一瞬だけ、遠い過去の私たちに戻る。二人を中心に世界が巡っていたあの頃。まだ誰のものでもなかった、永遠に帰らない愛しいあなた。
 名も知らない鳥が新年を告げて鳴いている。甘酒はまったりと優しく、ほんの少し塩辛かった。
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