※リョナ本丸、虐待、欠損


小夜、小夜と、主が自分を呼ぶ声がする。呼ばれるがまま小夜左文字は小走りに駆け寄った。

「君の一番上のお兄さんが来たよ」

頭を撫でる主の言葉に小夜の顔は一瞬輝き、しかしすぐにその光は消えた。
江雪兄さま。
会いたかった。来てくれて嬉しい。けれどすぐに江雪左文字の行く末が想像できてしまって、小夜は暗鬱たる気持ちになった。
きっと兄さまは数日も持たないだろう。ここは地獄だ。江雪左文字が耐えられる場所ではない。
兄さまが狂う前に一目会いたいと小夜はお願いした。主は快く答える。しかし小夜の懸念は予期せぬ方向で外れるのであった。

夜更け。主に連れられて、江雪の待機するという一室に足を踏み入れた小夜は兄を見た。
薄青い髪は月明かりを集めたかのようにきらきらと輝き、反対に袈裟が重厚に存在感を放つ。背筋を伸ばして正座するその様は、この世のものとは思えないほどに美しかった。
小夜は二つの意味で言葉を失う。一つは、顕現した兄があまりに美しかったこと、もう一つは、その兄の目元にぐるりと白い包帯が巻かれていたことである。

「江雪。小夜が来たよ」

主が呼びかけるが江雪左文字は動かない。置き物のように固まっている。小夜はなにか、主がとんでもないことをしでかしたのを悟った。
主は畳を踏んで江雪に近づくと、その肩をぽんと叩いた。ようやく江雪が顔を動かす。主の方を見上げるが、その方向は微妙にずれている。主が江雪の白い手を握る。不思議そうに首を傾げる江雪の手のひらに、主は指で何事かを書きはじめた。
小夜は理解した。この江雪左文字は、目も耳も機能していない。
能面のようだった江雪の表情が急に華やいだ。きょろきょろと辺りを見回す。傍らに立つ主が小夜を手招いた。おそるおそる近寄る。近くで見る兄の姿はやはり信じられないほどに美しく、神聖なものに感じた。
江雪は何かを求めるように手を伸ばしている。小夜はその手にそっと触れた。白磁の肌はてっきり無機物みたいに冷たいものだと想像していたのだが、予想外に温かい。小夜の小さな手が江雪の手に包まれた。
さよ、と江雪の唇が動いた。目元は見えないが、顔がほころんでいるのは分かる。ぎゅっと手を握られて、小夜は泣き出したいような衝動に駆られた。
どうしてこんなことに?
主は黙って小夜と江雪の触れ合いを眺めていたが、物言いたげな小夜の表情に苦笑を漏らした。

「私は江雪左文字に一目惚れしてしまった」

照れ笑いを浮かべる。
小夜と主は、江雪を残して廊下に出た。そこで一連の事情を聞かされる。

江雪左文字は戦を好まぬ。刀でありながら、振るわれぬことを望む。
主は江雪の性質をよく理解していたようだった。彼の意思を尊重してやりたいと思い、戦を免除することにしたという。
その代償に、視力と聴力を奪ったのだ。




かじかむ手を冷水で流す。赤い汚れは水に流れて消えたが、さらに冷えてしまった指が痛い。
小夜は小さな手に息を吹きかける。
冬が近い。
人の身を持ってみて初めて、寒さがこんなにしんどいものだと分かった。この寒さに加えて飢饉にでもなったら、それはそれは辛いだろう。冬は作物が育たない。飢饉だけは避けたかった小夜は一生懸命秋のうちに貯蓄をしていたから、食べ物がなくなる心配はないと思う。
寒さは厳しいが、肉が腐りにくい季節になるのはよいことだ。ついでに雪でも降ってくれたら、薄汚れた本丸を綺麗に染め直してくれるだろう。さっき仲間の死体を埋めてきた庭を見て、小夜は思う。真っ白い雪に覆われたら土に染み込んだ血の匂いも隠されるだろう。
流し場を出て、人の気配のない廊下を歩く。厨房に向かった。

「おや、小夜」

夕餉の支度をしていたらしい、割烹着を着た歌仙が振り向いた。歌仙の頬はこけ、目の下には落ちない隈が黒々とこびりついていて、ひどく不健康に見える。

「お勤めは終わったのかな?お手伝いしてくれるのかい?」

小夜はうなずく。歌仙はげっそりした顔に笑みを浮かべた。

「ありがとう、僕はもうすっかり味が分からなくてね」

歌仙がかき混ぜている鍋の中身はおかしな色をしている。放っておくととても食べれたものではない一品が出来上がるので、小夜は頻繁に歌仙の様子を見に来ていた。鍋当番を代わり、味付けをし直す。ついでに中に入っていた数珠やら蛙やらよく分からないものを捨てた。

「助かるよ。ちゃんと料理ができる燭台切は出陣中だし…」

他の刀は使い物にならないから頼めないしね、と歌仙が苦笑を漏らす。歌仙には食材を切ってもらうことにして、小夜が調理を担当した。
主に気に入られている初期刀の歌仙ですらこの有様である。他の刀剣男士たちはもっと酷い状態になっている。
この本丸で、気の触れていない者は数少ない。一軍の面々と短刀の一部、あとは歌仙をはじめとする主のお気に入りの数人。まともに話が通じるのはその程度だ。
左文字の真ん中の兄弟も、もうとっくに狂ってしまっていて、今は座敷牢にずっと座り込んでいる。
毎日毎日、刀剣男士が死に続ける。おもに犠牲になるのは鍛刀やドロップで顕現した、生まれたばかりの刀剣男士だ。そして本丸の状況に耐えられない者は次々と発狂していく。発狂した者は独房にぶち込まれるか、慰み者になっていたぶり殺されるか。主の機嫌と気まぐれの匙次第で決まる。
だから江雪左文字が主に気に入られたのは僥倖であったし、目と耳を潰されたおかげで本丸の惨状を知ることがないのもまた、幸運であったかもしれない。もし五体満足で本丸に投げ込まれていたら、まもなく彼は発狂していたか、自害していただろう。江雪は何も知らず知らされず、主に寵愛されている。美しい置き物。

江雪兄さま。この本丸でただ一人、汚れを知らない刀剣男士。
小夜はふと歌仙を見上げた。

「歌仙、お願いがあるんだ」

不意にかしこまった小夜の言葉に、歌仙はきょとんと目を見開いた。

「なにかな」
「文字の書き方を教えてほしい」

細川家で過ごした日々がある。小夜は全くの無学ではない。それでも、人の体を動かして字を書けるようになるには、練習が必要だと思ったのだ。
歌仙は驚いたようだったが、すぐにとろけるような笑顔になった。

「もちろん! 喜んで教授するよ」

ここ数ヶ月で一番の笑顔だ。久しぶりに旧友の本来の姿を目にした気がして、小夜も少しだけ嬉しくなった。




江雪に会いたい、と言うと、主は承諾してくれた。

「小夜はいい子だから、江雪の可愛い弟だから、いつでも会いに行っていいよ」

ただし、分かるね。江雪を悲しませるようなことはしてはいけないよ。
釘を刺されて、小夜は底冷えするような心地になりながらうなずく。主はぽんぽんと愛しげに小夜の頭を撫でた。
小夜は気に入られているのだ。なぜならどんな残虐な主命でも顔色一つ変えずに遂行するからだ。何人、何十人、仲間を殺してその死体を処理したか分からない。

共犯だ。主の目はそう告げている。

小夜はひとりで江雪の控える部屋を訪れた。
以前に会った時とほとんど同じ場所、同じ格好で、江雪は鎮座している。

「江雪兄さま」

聞こえないのを承知で呼びかけた。受け止める者のいない小夜の声は、しんとした部屋に虚しく響く。
小夜は江雪の肩を叩いた。はっとしたように江雪が振り向く。手を取って、歌仙に教えてもらったばかりの文字を書き連ねた。

(小夜だよ)

理解したのだろう、江雪が明るい表情になる。
今度は彼のほうが小夜の手のひらに指で何事かを書き始めた。

(小夜、久しぶりですね)

期待するように小夜の方向に顔を向けている。相変わらず目元には包帯が巻かれていた。髪はさらさらで服も整っている。主が念入りに世話をしているのだろう。

(うん)

続く言葉を書きあぐねていると、江雪がふっと微笑みを漏らした。

(元気に過ごしていますか)

優しげな声が聞こえたような気がして、泣きたくなる。

(元気だよ)
(それは良かった。お友達はできましたか)

江雪はそれから、いくつかの質問をしてきた。出陣はどうだ、とか、主はよくしてくれているか、とか、ちゃんとご飯を食べているか、とか。小夜は頭をフル回転させ、どうにかうまい返しをする必要があった。
しかし、

(そうだ。宗三は来ていますか)

その質問をされた瞬間に体が固まる。脳が停止した。

(宗三兄さまは……)

指が震える。怪しまれないうちに何か書かなくては。

(宗三兄さまは、出陣できるのを喜んでいるよ。籠の鳥にならなくてすむって。楽しそうにしてる。皮肉ばかり言っているけど、生き生きして見えるよ)

自分でも驚くほどつらつらと嘘を書き連ねた。背に冷や汗が伝う。
江雪が苦笑する。ああ良かった、騙されてくれた。

(なるほど、宗三らしいですね)

罪悪感が胸を埋め尽くす。

(小夜も宗三も元気そうでなによりです。二人ともがんばっているのですね。ですが、話を聞いているとどうにも自分が情けなくなります。私はこのままで良いのでしょうか。弟たちを危険な戦場に送り、自分はのうのうと戦いを忌避し続けている。これは悪なのでは)

江雪の顔に苦渋の表情が浮かんでいた。彼自身も悩みの中にいるのだ。

(主は私に、何もしなくてよいと言います。おかしいと思いつつ、その言葉に安心している自分もいる。私は醜いですね。本当なら目と耳を直してもらい、戦場であなたたちと肩を並べるべきなのに)

小夜は首を振った。

(そんなことないよ、兄さま)

作り物みたいに精巧な手を取って、今度は嘘偽りのない本心からの言葉を書く。

(兄さまが綺麗なままここにいてくれることが、僕の救いなんだ。なにも心配しないで)

小夜はじっと兄の端正な顔を見上げる。江雪は複雑そうに笑った。

(ありがとうございます、小夜)

しばらく頭を撫でられた。江雪の膝に乗って、幼子をあやすみたいに撫でられるのは、重荷が全部下りるみたいな安心感があった。
立ち去るとき、今度は宗三にも来てほしいと江雪は頼んだ。
わかった、と小夜は返答したが、叶えられることのない願いだと胸を痛めた。三畳間で、宗三はどこか別の世界を見つめたまま帰ってこない。




風呂を掃除しようと思って浴槽の蓋を開けたら、脇差の兄弟が仲良く死んでいた。醜く膨れた水死体を見て、小夜はうんざりする。この兄弟は焼かれると記憶が抜け落ちるらしくて、それを面白がった主がよく戯れに体を焼いて楽しんでいたのだ。虐待された記憶まで忘れてしまうから都合がいいと喜ばれていた。
が、いつしかこの兄弟は、体が常に燃やされているという妄想にとりつかれ発狂してしまったのである。その結末がこれだ。水に飛び込んで幻想の炎を消そうとしているうちに死んでしまったのだろう。
死ぬのは勝手だが、死体を処理するこちらの身にもなってほしい。小夜は小さな体でうんうん唸りながら死体を引っ張り上げる。水を吸ったせいで重いのだ。駄目だ、床にへたりこんで息を吐く。歌仙にでも手伝ってもらおう。

びしょびしょの服で廊下を歩いていると、向こうから怒声が聞こえてきた。音に合わせて床が揺れる。

「ああ、小夜」

日の当たる縁側で、加州清光が困ったような顔を向ける。加州清光は花瓶に浮かんでいるのだ。

「なんか、あの人が暴れてるみたい…。独房、見てきてくれないかな。あの人力強いし、手枷足枷が外れてるかも」

加州清光は手足を切り落とされて達磨になっているから身動きが取れない。日がな一日、ぷかぷかと大きな花瓶に浮かんでいるしかないらしい。それもどうかと思うが、発狂していないだけましである。

「わかったよ」

また仕事が増えた。小夜はため息をつく。とりあえず、その人が閉じ込められている独房へ向かった。がしゃんがしゃんと檻を揺らしながら獣じみた声を上げているのは、神刀を自称していた大太刀の一振りである。かつて涼しげだった目は完全にいかれて血走っている。

「鐚醐若罘純紫?!?! 喧縺代ヱ繧ソ繝シ繝!!!!!」

口をついて出るのは訳のわからない呪詛ばかりだ。もしかしたら意味のある一連の祝詞かなにかなのかもしれないが、そういった知識のない小夜には理解できない。
手首と足首を見る。枷はちゃんと繋がれたままだ。
憎しみを凝集したような眼で石切丸は小夜を睨む。その険しさにぎょっとした。

「大人しくしていてよ」

若干怖じ気づきながらも小夜は言い聞かせる。石切丸はなおも涎を垂らしながら何事かを喚いていたが、小夜が諦めて立ち去ろうとした瞬間、急に声音が変わった。

「貴様の兄弟がきたせいでさらなる不幸が生まれる」

突然意味のある言葉を浴びせられて、冷水を被ったかのように全身が凍りついた。振り向く。石切丸は憎悪を剥き出しにして小夜を見ている。その瞳はやはり濁っていたが、完全に狂っているとも思えなかった。

「全て貴様のせいだ、貴様のせいだ…。この悪鬼、疫病神、死ね、死ね死ね……璢罍髃處痴……」

再び意味のわからない羅列を吐くだけになった石切丸は、ずるずると床を這いながら部屋の奥に帰っていった。
小夜は一目散にその場を走り去った。
恐ろしかった。人を殺すよりも、死体を埋めるよりも、こんな剥き出しの憎しみをぶつけられるほうがよほど怖かった。
気がつくと、江雪の部屋の前まで来ていた。心臓は早鐘を打っていて、足はがくがく震える。小夜は息を荒げたまま襖を開けた。
外界と遮断された静謐さで、いつもと同じように江雪は佇んでいる。転がるように兄のもとへ飛び込んだ。江雪はびくりと体を揺らした。驚いて、手探りで辺りをうかがう。その手が小夜の頭に触れた。

「……小夜?」

掠れた声が江雪から発せられる。初めて聞いた。兄さまはこんな声をしていたんだ。
江雪の手の中で、小夜はうなずいた。乾いた温かい感触に包まれる。兄さまはなんて清潔なんだろう。主が何も知らせずに囲いたくなる気持ちも分かる。こんなに神聖なものを血と怨念で汚してはいけない。
江雪は小夜の手を取り出すと、指で文字を書き始める。

(どうしたんですか)

首を振る。なんでもないと呟くが、江雪には届かない。

(さよ、だいじょうぶですか)

江雪も動転しているようだ。あまり心配をかけてはいけない。小夜は江雪の手に返事を書く。

(大丈夫。ごめんなさい)

それ以上は何も話したくなくて、小夜は江雪の手をぐしゃっと握りしめた。
江雪はしばらく黙り込んだあと、小夜の頭を撫でる。ずいぶん長いことそうしていた。

僕は地獄にいる。






小夜は凍りついた庭の土を、ざくざくと掘り返している。
今日は一段と寒い。吐く息が白い。もうすっかり冬だ。
よっこらせと重い塊を穴に投げ込んで、手を払う。ふと空を見上げると、白いひらひらしたものが降っていた。
雪。どうりで寒いわけだ。雪というものはもちろん刀のときから知っていたが、人の姿を得てから初めて見るので、ちょっとだけわくわくしてきた。手を伸ばしてひとひらを捕まえてみる。白い欠片はすぐに肌の上で溶けてしまう。小夜が見上げている間にどんどん雪は降りだして、視界は白いつぶつぶで埋まってきた。
無性に楽しくなってきた。両手を広げて雪を全身に受ける。雪はじゅうぶんに冷たく、一点の曇りもなくて、さらさらと優しかった。江雪兄さまみたいに。
小夜は笑い出した。主にみかんをもらったから、あとで雪に埋めて冷凍みかんを作ろう。出来たら兄さまと一緒に食べよう。
雪まみれになった小夜が屋敷に戻ると、なんと縁側に江雪その人が立っていた。

「兄さま?!」

驚いて駆け寄る。襖を掴んで立っている江雪はひどく頼りない。長いこと日に当たっていないためか、肌は透けるように白かった。体が細いのが遠目からでも分かって、痛々しい気持ちになる。
小夜の声や足音は聞こえないが、廊下を鳴らす振動を感じたのだろう、江雪がこちらを向いた。

「兄さま、ひとりで部屋から出たら危ないよ。どうしたの」

聞こえるはずもないが思わず話しかける。小夜が江雪の腕に触れると、江雪はふわりと微笑んだ。もう小夜のことは感触で判別できるらしい。
言葉を書こうと小夜の手のひらを握った江雪が眉をひそめる。さっきまで雪で遊んでいた小夜の手は氷のように冷たかったのだ。

(冷たいですね)

はぁ、と小夜は脱力する。

(兄さまはなにしてるの)

指で問いかけると、江雪は少しはにかむように笑った。

(雪が降っていると主に聞いたので)

気になって様子を見にきたらしい。目も見えないし音も聞こえないのに。

(雪が見たいの?)

小夜の言葉に、江雪は恥ずかしそうにうなずく。

(じゃあ積もったら僕が持ってきてあげるね)

江雪は嬉しそうにありがとう、と唇を動かした。
兄さまを守るため喜ばせるためなら何だってしたい。

やっぱり冷凍みかんを食べなくては、と小夜は思うのだった。
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