物持ちはいいほうだ。中学生の時に買ったジャケットはいまだに使い回しているし(悲しいことに身長が伸びなかったのだ)、お気に入りの靴は何度も修理屋に出して履いているし、前の恋人にもらった香水を思い出したかのようにつける日もある。だから私が刀剣男士に好かれるのは、モノを大事にする性質が滲み出ているからかもしれない。
 香水の話をするならば彼女の話をしなくてはならない。高校時代に付き合いはじめた同性の恋人とは数年続いていたが、私が審神者になる際に遠距離は無理だという理由で別れた。離れても気持ちを通わせたままのカップルはたくさんいるはずなのに、私たちにはもう障壁を乗り越える努力ができなかった。冷めてしまったのでも飽きてしまったのでもない。熱量を残していなかったのだ。お互いにがむしゃらになって喧嘩したり抱き合ったり泣いたりすれば違う未来があったのかもしれないけれど、もう、そんなエネルギーは残っていなかった。
 彼女と撮ったプリクラも携帯に保存してあった写真も記念日の愛のこもったメッセージもすべて削除し、本丸という異空間に思い出を連れていくことはしなかった。けれど、彼女がバイト代をかき集めて買ってくれたプレゼントは捨てることができなかった。18.9の女子が背伸びして買ったCHANELの香水。もったいなくて二人で出かける日にしかつけられなかったけど、彼女とお揃いの香りでこっそりと手を繋ぎながら街を歩く時間は確かに幸せだった。

「今日の主はいい香りがするね」

 やけに距離が近いこの太刀が臣下にあるまじき下心を隠しているのは明らかだった。爛れた蜜のようなとろんとした瞳に籠絡される人間は少なくないのだろうと、整った風貌を間近で見上げながら思う。刀は主を好むらしい。それは忠誠にとどまらない思慕か。

「ありがとう。これ、恋人にもらった香水なの」

 があん、と鐘で殴られたように表情を変える燭台切に面食らったが、あまりにも露骨に嫉妬と怒りをあらわにするので可笑しくなってしまった。他人の感情を揺り動かす楽しさを思い出す。

「へえ、恋人がいたんだ?」
「もう別れたけどね。一緒にこの香水をつけていたの」

 出来うる限り幸せそうに微笑むと燭台切は無理矢理に笑顔を作り出し、良いセンスだね、と相槌を打つ。私に嫌われないようにと必死に体裁を整えているのが見え見えだった。
 燭台切がプレゼントだと言って有名なブランドの紙袋を渡してきたのは翌週のことだった。中には丁寧に包装された小瓶が入っている。顔を見上げると彼は不気味なほどにっこりと笑っている。

「君に似合うと思ってね」

 洒落た作りの蓋を開けて香りを嗅ぐと、ムスクの芳香が鼻を抜けた。重い官能的な香り。男女の情事にぴったりの香りだと思った。私が彼女と共有していた楽園のような香りとは訳が違う、妙なリアリティを携えている。

「今度、つけてみてくれないかな」

 笑顔のくせに物騒な光を宿す瞳が私を見つめる。うなじにつけたマルメロがお守りのように香った。私は慎重に小瓶を箱の中にしまい、微笑みを返した。

「いまの香水を使い切ったらね」

 一日の終わり、燭台切にもらった香水をワンプッシュして手首につけてみると、きついアルコール臭のあとから重厚な香りが湧き立った。熱帯の雨や絡み合う植物を思わせるような重い香りは、一瞬で夜を連想させるほどにいやらしく、人が奥底に秘めている官能をくすぐる。とても私の好みではなかった。燭台切は私に似合う品物を選んだというより、この香りを纏った女を抱きたいだけではないか。馬鹿馬鹿しい。風呂で念入りに体を洗おうと顔をしかめたところ、廊下から声がかかる。

「主、明日の出陣のことで質問が」

 入ってもよろしいでしょうか、と問いかける声に許可を出す。襖が静かに開き、堅苦しくカソックを着込んだ男が頭を下げた。

「夜分に申し訳ありません」
「いいえ。どうぞ座って」

 うやうやしく礼をする長谷部の整ったつむじを苦笑しながら見つめる。こちらも馬鹿馬鹿しいことだ。この刀も奥底に秘めた下心を隠せていない。明日でもいいような些細な用件で寝室を訪問されるのは今に始まったことではない。話が終わってもしばらく、名残惜しそうに部屋に留まりたがる長谷部がなにを期待しているのか一目瞭然だった。

「お詫びと言っては何ですが、歌仙に分けてもらったほうじ茶です。お口に合うかと」
「わ、ありがとう!」

 熱い湯呑みを渡されて微笑むと、長谷部も満更ではない顔をする。最近では手土産に菓子やお茶を持参してくるのだから用意周到なものだ。ほぼ毎晩長谷部に夜の時間を奪われていると知ったら、燭台切はどんなに悔しがるだろう。ふくよかに香るほうじ茶をひとくち啜り、ふと、重いムスクの香りが漂う。悪魔的なひらめきが脳を貫いた。

「今日の私、いつもと違うと思わない?」

 急に体を寄せてきた私に、長谷部は目を見開き、訝しさと嬉しさが混じったような表情をする。

「なんでしょう…?」
「もっと近づいてみて」

 笑顔のまま誘うと、ためらいつつにじり寄ってくる。膝が触れるほどの距離になって、あ、と彼は声を上げた。

「なんだかいい香りがします」
「正解」

 お利口さん、と頭を撫でると長谷部はびっくりしつつも喜色をあらわにした。手首につけた慣れない香水が嗅覚を刺激する。私の香りじゃない。別の女になったみたい。だからこんな振る舞いができる。

「知ってるよ。長谷部が私のこと好きだってこと」

 びくりと肩を震わせた男を畳み掛けるように両手で頬を挟む。藤色の目が右往左往するたび動揺や興奮に色を変えるのが面白い。

「ねえ。ご褒美をあげる。貴方にだけ特別に」

 好きでもない男と寝るつもりは更々ないが、一方的にもてあそぶのは悪くないと思った。燭台切のくれた香水は効果てきめんだったらしい。だって普段なら思いつきもしないような欲望に突き動かされている。
 長谷部は驚き、焦り、唐突な申し出に慌てふためいた様子を見せたが、すぐに善人ぶった表層は剥がれた。彼が持ってきた薄い書類はぐしゃぐしゃに踏みにじられ、転がったほうじ茶が畳に染みを作る。可愛くて愚かな私の刀たち。男の姿を得たばかりに性欲なんぞに支配されて。張り出した下腹部を柔らかく踏めば子犬みたいな声を上げて善がった。渦を巻く香りの中で私は色とりどりの花や鳥や蔓草を見る。ここは別の場所、別の自分。非日常にトリップしたような恍惚感が体じゅうを駆けめぐる。だらしなく絶頂に達した長谷部を笑いながら見下ろし、気づいたときには性の匂いが充満していた。
 以来、燭台切のくれた香水をつけて長谷部を呼ぶことが、私たちの合図になった。


「最近、僕のあげた香水をよくつけてくれるね」

 燭台切はこのところ機嫌がいい。隻眼を三日月に細め、満足そうに私の髪をひとすくいして香りをかぐ。蜂蜜色の瞳を見つめて私も微笑む。脳裏に浮かぶいやらしい出来事の片鱗も表に出さないように、上品に笑い返す。これは肌に染みついた秘事の香りだ。長谷部はもう、この匂いを嗅ぐだけで下半身を固くする。よく躾けられたパブロフの犬だ。燭台切の思いもよらない所で彼の香水は誘発剤の役割をしている。悪巧みがずっと成功しているような気分だ。おかしくてたまらない。燭台切は順調に私が自分色に染まってきていると信じているのに。
 血相を変えた燭台切が私の腕を掴んだのはその日の夜だ。練度の違う二振りは同じ部隊に入ることがなく、あまり接点がなかったが、たまたま夕餉の皿を片付けにきた長谷部が燭台切の真横を通り、特徴的なあの「香り」に気づいたらしい。闇の立ち込める廊下からにゅっと現れた黒い姿から、いつもの快活な笑みは消え、血走った目がぎらぎらと光っていた。

「どうして長谷部くんからあの香りがするの?」

 襖が開いた。長谷部が笑っている。その笑顔はいつの間にか私とそっくりな悪徳の色をたたえている。

「教えてあげる」

 私は燭台切の手を引いて寝室へ誘う。ぱたん、と後ろ手に長谷部が戸を閉める。濃い官能の香りが遮断され、残り香が闇に溶ける。あとはもう、3人だけの秘密だ。
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