姫のご機嫌を損ねるのは簡単だ。夏の豪雨みたいに突然で、でもよく考えれば前兆は分かりやすい。
 きっかけは些細なことで、例えばたまの休みの日にうっかり寝坊してしまったこととか(ぐっすり眠っていたので陸奥守が起こすのは憚られたのだ)、そのせいで二人っきりの外出の時間が減ってしまったこととか、店の前で他の審神者と仲良く話してしまったこととか。『姫さん』と刀に呼ばれる我が主は、屈託なくわがままで愛らしい。寝坊した自己嫌悪で道中口数が少なかった主を約束通り茶店に連れて行き、暖簾の前に掲げられた期間限定のかき氷の看板を見せると少しは目を輝かせたが、たまたま出会った演練相手の審神者に陸奥守が気さくに話しかけたせいで計画はおじゃんになってしまった。

「どこへ行くんじゃ主」
「服屋さんに行ってくる! この服、暑くて失敗したの!」
「一緒にかき氷を食べてくれんかのう?」
「陸奥守はお友達と食べてればいいじゃない!」

 ぷいと言い放ちサンダルのヒールを鳴らして歩いて行ってしまう。緑の目の魔物には困ったものだ。他本丸の審神者との別れも早々に、主の後ろ姿を追う。下駄の素足に跳ね返る太陽の熱、地面から立ち上る蜃気楼。腰にかけた鞘は燃えるように暑かった。思わず目眩がして立ち止まり、白くなった視界を振り払う。気づいたときにはちいさな人間の背中は見えなくなっていた。

「ああ、駄目じゃあ」

 人の体は暑さにも寒さにも弱い。ため息をつき、ひとまず出店の屋根の下へ逃げ込んだ。肉体を持ってまだ数年しか経っていない陸奥守の体からはバグのように汗が流れ落ちる。夏は頻繁に水を飲まないといけないのを忘れていた。店員に冷えた緑茶を注文し、氷のたっぷり入ったそれを飲み干すと少しは頭が鮮明になった。そういえば主にも水を飲ませていなかった。自分より熱に弱そうな細い体だ。早く見つけ出して涼ませてやらなければ。
 沸き立つ光の下へ歩き出そうと覚悟を決めた瞬間、湿ったにおいが鼻に届いた。あ、と思ったときには黒い雨粒が地面に模様を作る。天気予報は当てにならない。慌てた人間や刀たちが軒下へ飛び込んでくる。傘を持っている者はほとんどいないようだ。もちろん陸奥守と主も同様に。喧騒が横一列に集まる。買い物途中の審神者と刀たちが困った顔で笑っている。ぽつんと取り残された陸奥守は鉛色の空を見上げた。見る間に雨足は激しくなり、地面を叩く大粒の雨が跳ね返って白く濁る。

「傘を売ってくれんかの」
「あいよ。だが10分も雨宿りすれば弱まるだろうよ。もうちょっと休んでいったらどうだい?」
「いやあ、主とはぐれてしまったんじゃ! 早く探さないと心配するぜよ」

 蛇の目傘をパッと開き雨の世界へ踏み出す。さっきまで暑かった地面はぬるい水で潤っている。水溜りに足を濡らしながら、人のいなくなった道の真ん中を歩いた。店の並びに、見慣れた人の姿を探す。バラバラと頭上で雨が弾かれる音を聞く。視界が煙っていく。長い一本道は遠い昔の思い出に吸い込まれるようだ。陸奥守を腰に差し、こうして一人歩いた武士が何人いたことだろう。道の左右が暗くなり、過去の亡霊が並び立つ。あまりに長く生きすぎて、夢か現実かわからなくなる。それでも、生きている人間が一番強いことを陸奥守は知っている。
 不意に鮮やかな黄色のワンピースが視界に飛び込んできた。灰色の世界が色を取り戻す。服屋の軒下でふてくされた顔は、後悔と不安半々で陸奥守を見つめていた。

「迎えに来たぜよ、お姫様」

 お気に入りの花柄のワンピースの裾は泥水に濡れていた。傘を畳んで主の横に並ぶ。

「服、汚れてしまったのう」
「陸奥守もびしょびしょだよ」
「わしのは元々ボロだからいいんじゃ」

 にっこりと微笑むと主もつられて眉を下げて笑った。雨の音が弱くなる。夏の雨は激しく降ってもすぐに止むのだ。お姫様のご機嫌みたいに。

「ねえ、かき氷食べに行こう?」
「もちろんじゃ。その前に服は買わなくてええのか?」
「涼しくなったから大丈夫。泥は洗えばきれいになるし。本丸に帰ったら陸奥守の服も洗おうね」
「そうじゃな!」

 雨雲が遠ざかっていく。主の頬は汗でつやつやと光っていて、夏の生命の力強さを感じた。熱い手が陸奥守に触れる。じっとりと湿った肌が手のひらに吸い付いた。

「ねえ、この夏はお祭りも行きたいの」
「祭りか! ええのう」
「浴衣を着て、金魚すくいして、りんご飴も食べたい」
「ほいたら今度は浴衣を買いに行かんとな!」

 甘えるように繋がれた手を引いて歩き出す。ぬかるんだ地面にふたりぶんの足跡が残る。

「花火が上がったら私の名前を呼んでキスをして」
「姫様はわがままじゃのう」

 握った互いの手が熱い。過去の亡霊を焼き払うように太陽が差す。陸奥守を現実に繫ぎ止める最大の光源が真横にある。永遠に夏ならいいのに。
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