・フォロワーのまるさんをイメージして書かせてもらいました

人の体を得てから初めて海を訪れたときは、こんなに広いものなのかと驚いた。水の塊が果てしなく続いている。寄せては返す波は生きているみたいで、一度足を踏み入れたら捕まえられて二度と離してくれないだろうと思った。

「陸奥守、おいでよ」

彼女は白い足首をさらして砂浜に小さな足跡をつける。臆することなく波打ち際まで駆けて行ってしまうと波が歓迎するようにざばーんと打った。

「主、危ないぜよ!」

儚い人の身で、強大な海に立ち向かえるものかと陸奥守は青ざめた。急いで走り寄りたかったが波の手前で足が止まってしまう。怖いのだ。陸奥守は刀だ。塩水に触れれば錆び付いて使い物にならなくなってしまうと本能が恐怖している。
慄いている陸奥守の心境を悟ったのか、彼女は呆れた顔で手を伸ばしてきた。

「ほら」

その手を取った瞬間、強い力で体を引かれる。柔らかな砂地は陸奥守のもつれた足を支えられなかった。
ぐるりと頭上で空が回った。

(ああ、錆びてしまう!)

ばしゃーん

全身に冷たい感触がして服の中にまで侵食してくる。ぶはっと口の中に入った水を吐いた。塩辛い。砂まで入ったようでじゃりじゃりと嫌な感触がする。
死に物狂いで体を起こした陸奥守を見て、彼女はおかしそうに笑った。

「ね、大丈夫でしょ? あなたはいま人の体なんだから」

濡れた髪が彼女の頬に張り付いて、まぶしい太陽光に反射する。両手を握られてすっと沖のほうに引かれた。浮力のせいだろうか。自分より非力なはずの彼女に拍子抜けするほど簡単に引っ張られて、すいすいと海の中に入っていってしまう。
足が水を蹴る抵抗感。波が素肌をすり抜けていく感覚が新しい。

「ほら、力を抜いたら体が浮くでしょう」

彼女の手をきつく握りながら、陸奥守は目をぱちぱちさせる。沈まないし、錆びない。というのは刀の時分では考えられない現象だった。
体を任せてしまえば波は心地よいものだと知った。

波が浜を打つ音、頭上で白い鳥が鳴く声。だだっ広い自然の中でふたりきりというのは心地よい孤独だった。このままずっと彼女と手を繋いで、なにもかもから離れてふたりで海に浮かんでいたい。そんな人間めいた感傷を覚えた。

しかし人の体ではそうはいかない。冷たい水が体温を奪って寒くなってきたのだ。
砂浜に上がって照りつける太陽で体を乾かす。そうしている間に、彼女は砂浜を歩き回ってなにかをさぐっていた。

「あ、あった! 陸奥守、みてみて」

嬉しそうに呼ばれて差し出されたものは、水色のまろい塊だった。向こうが透けない、濁った空色のそれを光にかざすときらきらと輝く。

「なんじゃ、こりゃあ?」
「これはね、波で角が取れたガラスの破片なんだよ」

綺麗でしょう? と彼女が嬉しそうに笑うので、陸奥守は一緒にガラス片を探すことにした。ふたりして砂浜を歩き回るうちにすっかり体は乾き、両手いっぱいの空色の欠片を手に入れた。
いつのまにか傾いた夕日が、少し日に焼けた彼女の横顔を緋色に照らし出す。

「陸奥守は特別だから、ひとくちあげるわ」

言うなり彼女はガラスのひとかけらを指につまみ、あーんをする要領で口元に近づけてきた。
それがあまりにも自然な仕草だったので、なにより彼女にこんな行為をされることが嬉しくて舞い上がってしまって、思わずぱくりと口に含んでしまう。
舌の上に乗った塊はなめらかな飴のようだった。夏の空を固めたようなそれはほんのりと熱く、歯に当たるとカチリと響いた。表面のつるつるしたガラス片は抵抗なく喉奥へ滑っていく。
嚥下する際にわずかな引っかかりを覚えたが、こくりと喉を鳴らして彼女の小さな狂気を飲み込んだ。
彼女は心底嬉しそうに見届けて、

「それは私の愛の証だよ」

まろい形のそれは粘膜を傷つけることなくしっかりと胃に落ちたが、ガラスは消化されないから肉体に取り込むことはできないだろう。わずかに違和感を残す腹のあたりをそっとさする。
彼女のくれた愛の欠片は間違いなく異物で、この日の思い出を凝縮したような甘辛い海の味がした。



それ以来彼女は、陸奥守が偉いことをすると(誉を取ったとか、彼女の髪をきれいに梳かせたとか、おやすみのキスが上手にできたとか、そんなことである)、ご褒美と称してあの日持ち帰ったガラス片を飲ませるようになった。
どこまでがお遊びでどこまでが本気なのか。陸奥守には彼女の思惑の見当もつかなかったが、愛の証だと言われれば甘受するより他に選択肢はなかった。
今日も彼女の手ずから餌付けされる雛のように、ひとかけらの塊を飲む。だんだんと腹に溜まって体が重くなっていくのが分かる。
このやりとりを知るものは本丸にはいない。彼女の愛を賜るのが自分だけだという事実は、陸奥守に彼らしくもない屈折した優越感を抱かせた。お姫さま然、時に女王さま然として振る舞う彼女は、刀剣たちの庇護と寵愛を集めてやまなかったが、彼女が誰か一人に愛を『与える』といういわば献身のような行為は考えられないことだったのだ。
主人に特別扱いされれば嬉しくないはずがない。彼女の愛で体が重くなっていくことに、まぎれもなく幸福感を覚えている。



政府の管狐が終戦を知らせに来た。
彼女は晴れて審神者業を引退し、あるべき時代へと帰るらしい。
陸奥守はぼんやりしながら聞いていた。今までずっと隣にいた彼女が手の届かない場所に行ってしまうことに実感が湧かない。
この週末、長い戦いを終えた記念に、盛大な宴会を開いて皆でお別れの挨拶をすることになった。刀たちは喜びと悲しみに浮き足立ちながらも宴会の準備を進めている。それを終えたら彼女は現世へ戻ってしまうのだけれど、陸奥守にはやっぱり信じられなかった。

一方、自由きままな彼女はいつも通りの屈託のない我儘で陸奥守を振り回した。

「陸奥守、最後にもう一度海に行こう」

彼女に手を引かれてこっそり本丸を抜け出し、いつか訪れた海にふたりきりで向かう。その身勝手さがなにより愛しいと、小さな手に先導されながら思った。この手を握れるのもあと何回なんだろう。彼女がいなくなればとうとう自分はただの刀に戻ってしまうのか。せっかく鉄の代わりに血の通った、錆付かない温かい体をもらえたのに。

熟れたような太陽が海の中へ飲み込まれていく。わずかな丸みを帯びた空と海との境目は、水平線というのだそうだ。朱色に染まった水平線の果てから離れるにつれ紺碧の闇がじわじわと濃さを増し、夜の手が伸びている。

「主。早く帰らないと、燭台切たちに怒られるぜよ」

厨房係は食事の時間に厳しい。いや、そうでなくても今は皆が主との残り少ない共食の機会を無駄にしたくないのだ。夕食に間に合うように本丸に帰還しないと、皆に合わす顔がなくなってしまう。
彼女はなにも言わず陸奥守の手を握ったまま、どんどん色を藍に変えていく海と空を見つめていた。

「どうしたんじゃ。話したいことでもあるがか?」

沈黙に耐えきれなくなって口を開いた瞬間、彼女は陸奥守の手を引いて歩き出した。海に近づけば波の飛沫が足首にかかって、その冷たさにぞっとする。

「知ってる? 陸奥守。私たちが本丸で過ごした三年間、現世の時間に直すと百年なんだって」

思わず足を止めそうになったが、強い足取りで進み続ける彼女がそれを妨げた。

「お母さんもお父さんも兄弟も友達も、みーんな、死んじゃった。私は審神者業の報酬としてこの先生活に困らないほどのお金と地位を約束されてるんだけど、現世に帰っても、私と一緒に暮らしてくれる人はもういないの」
「……そりゃあ、まっことか? 時の政府っちゅーもんは時を遡る力を持っちゅうんよね、ならばおんしを…お父もお母も生きとる元の時代に戻すことは可能ながやない?」
「それをしたら歴史が歪んじゃうんだって」

とうとう足の裏が冷たい水に浸る。彼女は迷いなくざぶざぶと進んでいってしまう。その横顔がふっと緩んで笑みを浮かべた。

「こういう昔話あったわねえ」

竜宮城で楽しく過ごして、帰ってみたら百年たっていた。取り残された時間の中で孤独に生きるしかない。

「私はそんなお話の主人公にはなりたくないの。お姫さまだもん。どうせ悲劇なら人魚姫になりたかったな。恋が叶わなくて泡になって消えるなんて、ロマンチックでエゴイスティックで素敵じゃない」

陸奥守はなにも言えず、幼い傲岸な横顔を眺めていた。
いまや膝下まで波にさらされている。気を抜いたら体を持って行かれそうだ。

「命令よ、陸奥守」

楽しそうに彼女が言った。

「私を離さないで、ずっと抱き締めてそばにいなさい」

お願いではなくて命令よ。と、尊大に振る舞う口調もこの数年ですっかり板についている。

「なんじゃ、ほがなこと……」

命じられなくても、許可されるのならそうしている。
彼女の肩に手を回そうとしたとき、歩を止めていた彼女が不意に沖へ向かって進み出してしまう。慌てて陸奥守は横に並んだ。もはや水の抵抗のため歩くことが困難だ。

「主、どこまで行くがか? 夜の海は危ないぜよ」

そろそろ引き返したほうがいいと進言しようとしたが、もしかして先ほどの命令というのは、彼女が何処まで行こうとついて来てそばにいてほしいという意味だったのではないか。今この瞬間も抱き締めて運命を共にする一体となれと。
ならば応えるしかあるまい。陸奥守が彼女の腕を引いて抱き寄せたとたん、足が水底へつかなくなった。急に深くなった海が牙を剥いてふたりを沖へと引きずり込む。
大丈夫だ。陸奥守は今や人型、泳ごうと思えば彼女を抱いてどこまでも泳げるーーーしかし予想は裏切られた。
ふたりの体はゆっくりと沈みはじめたのである。

「なん、で、」

パニックになりかけながらも片手で彼女を抱き、もう片手と足をばたつかせて浮上を図る。せめて主の指示を仰げたらと腕の中を見やると、なんと彼女は笑っていた。

「もっと沖まで歩いて。陸奥守」

それを最後に、彼女の唇は海面に沈んだ。
そして陸奥守は理解する。腹が重いことに。彼女のくれたあまりにも重い愛。飲まされ続けた欠片は陸奥守を重しにして共に沈んでしまうためだったのだ。
強い波がふたりを引いてとうとう頭まで飲み込まれた。海の中で見た彼女は少しだけ苦しげに、でもそれよりずっと満足そうな表情で目を閉じていた。
主が死んでしまう。目が熱くなって液体が込み上げてきたように感じたけれど、海の水に溶けてしまってよく分からない。口に感じる塩辛い味は涙そのものだった。

(あるじ)

思わず口を開いて彼女を呼ぶ。ぽこ、と泡のかわりに口からこぼれたのは青いガラスの球体だった。

(っ、?!)

ぱくぱくと陸奥守は口を動かす。主に呼びかけようとすればするだけ、青いガラス玉はこぼれて落ちていってしまう。

これは彼女がくれた愛の証。

腹の中が軽くなっていく。すべて吐き出してしまえば体が浮くだろうか。そうしたら彼女を抱きかかえたまま水面に浮上して、ふたたび空気を肺に満たせるだろうか。主を助けられるだろうか。

(ああ、)

嫌だ。

(許しとうせ)

陸奥守は堅く口を結んで、彼女の体をきつく抱きなおす。もう息を吐かない。彼女のくれた愛の証を一片たりとも失いたくない。
嗚咽が漏れるたびに口の端からぽろぽろと小さなガラス玉がこぼれた。必死に口元を押さえる。力の抜けてきた彼女の体に足を絡めて固定しながら、何処までも。
口を閉ざして水底へと沈んでいった。

泡になって消えるべきなのは自分のほうだ。


哀れな打刀が錆び付いて砕けて、波に洗われまろい欠片になるまで。暗い海の底で何百年という時を必要としたのだが、ようやく砂浜に打ち上げられた破片はきたない黒錆色の塊で、誰も見向きはしないのだった。


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