・現パロ、百合
・失恋

私たちはもう大人になってしまった。人工の光に照らされることも、ナイフとフォークを上品に使って料理を食べることも、酔い過ぎない程度にお酒を飲むことも覚えてしまった。あの頃、汗にまみれた素顔で晴天の下走り回っていた少女はもういない。ありふれた制服に身を包んだ私たちは確かに無敵だった。電車に乗ってどこまでも行けると思っていた。あれからたった数年、別々の場所で生きて、別々の道に進んだだけ。たったそれだけなのに埋められない溝が足元を分けてしまった。丁寧に化粧をして伏し目がちにナイフを使う彼女はとても綺麗で、薬指には銀色が光っていて、もう私の一番ではなくなってしまった。

「君に言わなきゃいけないことがあるんだ」
「なに?」

私は愚鈍な女を演じ切る。半年に一度の帰省のたびに安定とは会っていたけれど、彼女の変化には気づかないふりをしていた。お互い社会人なのだし、たまには贅沢をしようという彼女の申し出で、ちょっとお洒落なイタリアンのお店で待ち合わせをしたのが今夜。いつも通りの当たり障りのない、柔らかな傷の舐め合いのような時間を予想していたけれど、見事に裏切られた。

「なかなか言い出せなくて黙ってたんだけど……」

オレンジ色の照明が安定の睫毛の下に影を作る。高校時代にふくよかだった頰は年齢相応に脂肪が削れてなだらかな曲線を描いている。もしここで、私が飲みかけのグラスを投げつけたらどうなるだろう。もし安定の左手の指輪を奪って放り捨てたら。もし、彼女の腕を掴んで夜の街に逃げ出したら。もし、もし、もし。無数のifが樹形図のように広がっていくけれど微笑んだまま安定の言葉の続きを待つ。だって私は、彼女の一番の"親友"なのだから。

「僕さあ、結婚したんだ」

目線を上げて不器用に笑う安定は、幸せそうというよりむしろ痛々しかった。テーブルの上に置かれた白い拳がぎゅっと骨を浮かせる。やっぱりな、と冷めていく思考は表情筋を完璧に動かした。

「えー?! そうなの?」

言ってくれたら良かったじゃん、おめでとう! 高い声でまくし立てる私は気さくな女友達を演じられている。親友の朗報に心から喜ぶふつうの女友達を。

「なんで話してくれなかったの?彼氏がいることすら言わなかったじゃん」
「それは、僕たち、あまりそういう話する機会がなかったからさ」
「でも言ってほしかったよ。挙式はまだなの?」
「式は挙げないんだ。お金がないからさ。入籍しただけだから、わざわざ連絡するのもあれかなって」

私は大袈裟に驚いては喜んで、残念がって。冷静に考えたらみじめな話だ、親友の結婚の報告を後日になるまで教えてもらえなかったなんて。怒りとも悲しみともつかぬ気持ちが膨らんでいくけれど、表面に出る前に押し込んで、祝福の笑顔を向ける。

「指輪、よく見せてよ」

安定は決まり悪そうに微笑んで左手を差し出した。繊細なラインの刻まれた銀色に爪の先で触れる。カチリと硬質な感触。そこから指をずらして彼女の肌に触れる。ぴくりと反応した彼女の指から輪をそっと引き抜いて、人肌に温まった金属を手のひらに乗せてみた。

「綺麗」

裏側には見知らぬ男の名前と安定の名前が彫られている。私のほうが何年も前から安定のことを知っているのに、ぱっと現れた男にさらわれていくんだ。

「愛されてるんだね」

安定は眉を下げて微笑んでいた。店内の光に照らされて大きな瞳は潤んでいた。私は手の中の指輪よりもっとだいじな宝物に触れるように安定の薬指をつまんだ。彼女の指に婚姻の証を戻す。ゆっくりと、まるで永遠の愛を誓うように。人生ではじめてのプロポーズみたいに。
指の根元まで銀色を戻すと、安定は物言いたげに私を見つめた。私はもう大人だから、人前で泣いたりしない。言うべき言葉を間違えたりしない。

「結婚おめでとう」
本当は、違う言葉を言いたかったのかもしれない。そして安定も、別の答えを求めていたのかもしれない。

「……ありがとう」

安定は泣きそうに笑って、目元をぬぐった。

だってさ。分からないわけないじゃないか。いつの間にか安定のラインの登録名からは苗字が消えていて。「旅行に行ったんだ」とお土産をくれた時だって、誰と行ったのか気になって仕方なかった。けど、聞かなかった! 安定に私以上に大切な人がいるなんて許せないから。信じたくないから。私だって恋人ができても安定には絶対に知らせなかった。どんな男や女と付き合ったって安定以上に好きな人なんていないんだから。
私は、私たちは本当に子供だったんだ。何も知らないお子様だった。友達のままでいればずっと同じでいられるなんて、綺麗な夢物語を信じてこの日までだらだらと続けてきてしまった。恋心を抱いた時点で友達なんて終わっていたのに、お互いの気持ちを見て見ぬ振りして。どちらかが均衡を崩すことがないよう、ずっと水面下で牽制し合っていたんだ。
その結果がこのざまだ。私の一番愛するひとは見も知らない男を選んで結婚してしまった。苗字を変えて、親や友人に祝福されて、いずれ子供を産むかもしれない。そして私は、家庭を持った彼女の一番の親友であり続けることができるか? この張り裂けそうな胸の痛みを抱えたまま、安定の友人として、旦那や子供の話に相槌を打つことができるか?
0時ぴったりに送った誕生日メールも、二人っきりで行った映画も遊園地も花火も、記念写真も、なにひとつ色褪せず尊いままなのに。

「ねえ安定」
「なに?」

心地よく酔った体はふらふらと軽いのに、頭の中だけが絶望的に冴え渡っていた。コンクリートにふたりぶんの足音が響く。夏の夜はネオンの明かりが眩しくて涙が出る。駅に向かう道すがら、同じ背丈の横顔を見つめて笑った。

「大好きよ」

振り向いた安定にふざけたふりして抱きついた。
甘い香りが脳を痺れさせて、愛しさのあまり目眩がした。
私たちは変わってしまった。もう親友ごっこは疲れたの。
時間を巻き戻せたとしてもどこで間違えたのかわからないから。やり直すポイントに気づかずに同じ過ちを繰り返すのだろう。もし、もしも友情の破綻を恐れずに気持ちを伝えていたらなんて、もし同性であることに迷いを感じなかったらなんて、もし、もし。
想像の数だけ、パラレルワールドの私たちが死んでいく。
そして辿り着く答えは一つだけ。

「さよなら」

私の一番大好きなひと。
濡れた頰をそっと手でなぞって、目線を合わせて微笑んで。それでおしまい。
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