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 冬でもないのに火鉢をつけた部屋の中はむっとした熱気に包まれている。皆一様に沈痛な面持ちをしながら赤々と燃える炭を囲んで、私たちは居間にいる。
 太郎太刀が火箸で炭を転がすとパチパチと火の粉が弾けた。着込んだ体は熱を持って暑いはずなのに中枢が冷え切っている。

「長谷部の旦那は薬湯と称して、鬼灯と睡眠薬を混ぜたものを飲ませていたんだな」

 薬研が取り出して見せたのはちいさな木箱で、引き出しを開ければ中には乾いた草の根が敷き詰められていた。
 疑念を持った薬研がこっそり長谷部の自室を漁ってみたのだという。三度の食事とおやつには彼の厳重な毒味チェックが入っていたが、完全にプライベートな時間の飲食については把握しきれていなかった。そう言って薬研は詫びた。

「夜中に呟いていたという言葉がなんだかはわからねえが、おそらく子に害をなす呪いの類だろう」

 古来より炎は邪を払う。
 長谷部が私にかけた呪いがすべて清められるように、こうして真夏のように火鉢を焚いている。
 じっと話を聞いていた前田が顔を上げる。

「ささやかながら我らの守護が効いたのでしょう」

 私の手の中には握りつぶされてグシャグシャになった花が残っていた。短刀たちの守護とは、赤ん坊に降りかかる危険や害を贄として捧げた花に代わりに引き受けさせる、いうなれば形代のようなものだったという。

「ところで彼の言っていたという悪霊の話だけど」

 話を継いだのはにっかり青江だった。付喪神といえど怪奇に対処することに関しては得手不得手があるようで、霊を視ることについて彼の右に出るものはいなかった。

「悪霊ではないが、確かにいることにはいるよ。依り代に引かれて集まったが付喪神になり損なった、不安定なさまよう魂がね。だが主と僕らの霊力が充満したこの神域に近い本丸内で悪さをできるようなモノじゃない。そもそも君に手を出すような悪霊ならば、とっくに僕らが斬ってしまうからねえ」

 ああ、こんなことになるなら『彼』も斬っておけばよかったなぁ、と物騒に微笑む。誰もが叛逆者に怒りと失望を隠せていない。火鉢のせいだけでなく彼らの怒気で部屋の温度が上がっている。
 燃える炉の中に溶けていった長谷部は鋼の体で最後になにを思っていたのか。本来の姿に戻された物言わぬ刀剣は秘密と闇を抱えたまま炎の中に消え、永遠にその謎が明かされることはない。
 これでよかったのだ。私は波立つ胸をなだめて自分に言い聞かせる。己と子供を守るにはこうするしかなかった。刀剣らしからぬ激情にかられて道を踏み外し、主人に斬りかかろうとした長谷部はもはや付喪神ではない、悪鬼である。始末するより他がなかった。

「大将、現世に帰るつもりだったんだろう。それがいいぜ。しばらくここから距離を置いとくのが得策だ。奴がこの地にどんな呪いを残しているか分からないからな」

 薬研が言い、他の刀たちも彼に同意した。

「主が留守の間に本丸を清めておこう」

 石切丸をはじめとする神刀たちに頭を下げ、私は後味の悪い気持ちを抱えたまま現世に帰る。
 錯覚だろうか。刀に戻されるその瞬間、長谷部は笑っていたような気がする。その場に居合わせたものは誰もいないから確認することはできない。もしかしたら腹の子になにか新しい呪いをかけていったのかもしれないと思うと気が気でなかった。


 結局のところ私が再び本丸に足を踏み入れたのはそれから数週間も後で、その目的といえば正規の手段を踏んで本丸を引き継がせる手続きを行うためだった。
 母の病状は思ったより悪く、なにより精神のほうが参っているようで、長谷部との悶着の件を話せば余計に身重の娘を危険な戦場に置いていたくないと訴えた。もとより私が志願して審神者になったことに苦い顔をしていた両親である。このまま引き留めておきたいと考える気持ちはわからないでもなかったし、私にはそれを突っぱねるだけの意地も残っていなかった。
 出産、謀叛と理由がそろえば政府も審神者辞任の要求を聞き届けてくれた。本丸の引き継ぎ自体は珍しくはないが、なにぶん急な話だったのですぐには後任が決まらない。結果、しばらくの間夫にふたつの本丸を掛け持ちして指示を取らせるという無理をさせてしまった。
 辞任の意を表したとき、刀剣たちは悲しみ、あるものは涙を流して名残を惜しんだが、私を引き止めるものはいなかった。

「主は十分よくやってくれた。あとは人の世で人の子らしい幸せを見つけてほしい」

 それが彼らの総意であるらしかった。
 案外さっぱりとお別れを経てしまった。拍子抜けするような気もしながら、彼らが渡してくれたお守りを握りしめる。あらゆる厄を跳ね返すようにと念をこめて作ってくれたそれは近くにあるだけで皆の存在を感じとれるような、愛に満ちた一品だった。

 子供は無事に産まれた。
 五体満足でどこにも異常はなく、私は何ヶ月も苛まれていた不安からやっと解放された。長谷部の呪いとやらが効力を示すことはなかったのだ。産まれたばかりの子供を抱きかかえて安堵する。私と子供を守るために手を尽くしてくれた刀剣たちを思って心から感謝し、そして改めて、あれは恐ろしい場所だったと思い返す。いくら人間らしくても神だのなんだのと言っても、実際のところ彼らは時間戦争に繰り出される兵器なのだ。根本的に話の噛み合う相手ではない。私の子供には審神者になんてなってほしくはないと、我が身を棚に上げて苦笑した。

 育児に追われていると時間が経つのはあっという間で、日常に忙殺されるうちにかつての本丸で過ごした日々は遠ざかり、時折懐かしく思い出す程度の記憶になっていた。

「ママ! あっちにおはなさいてる!」

 子供はもう三歳になる。男の子で、私によく似た目をしている。
 夕方の公園には人気がなかった。うずうずと走りたがる彼の手を放して、緋色に染まった瞳をのぞきこむ。

「見てきていいよ」

 子供は七つまでは神のものと聞いたことがある。医療の発達していなかった時代の迷信にすぎないだろうが、万が一の事態もありえるかもしれないとまだ用心していた。
 戦況は依然として変化なく、華々しい進展もなく、惰性のように毎週の衛星放送が戦績をお知らせする。夫の任期はあと一年で終わる。幸いなことに夫の本丸は大きな損失もなく、就任してから今に至るまで無事に審神者を続けていた。彼が帰ってきたら今度こそただの一般市民に戻って何事もなく暮らしていきたいと思う。熱心に草花を眺めている子供の後ろ姿は平穏の象徴だった。

「お花たくさん咲いてるねえ」

 花壇というわけではなく野生の花が自生しているのだろう。どこか懐かしいような青草の匂い。晩夏、西へ傾いた日は長く、熱を失わない空気に半袖の肌がべたついていた。
 振り向いた子供が無邪気に笑い、手折った茎を差し出した。

「このおはな、きれい。ママにあげる」

 炎を固めたような色に思考が止まる。重たげに首を垂れるそれは花ではない。提灯のような袋に包まれた実である。
 鬼灯。
 嫌な思い出が一気に記憶の蓋を開けてよみがえり、立ち尽したままの私を圧倒する。
なんでこんなものを。
 いや偶然に決まっている。この季節に鬼灯なんて珍しくもない。物珍しい形と鮮やかな色は幼子の目を引くだろう。母親にきれいな花をプレゼントしようとする優しい気持ちは嬉しい。それでも受け取れないでいると、子供は不思議そうに首をかしげた。

「これ、きらい?」

 これ以上彼を不安にさせてはいけない。嫌いではないよ、ありがとうと言って受け取ろうと身を屈めたとき、彼は目を光らせてつぶやいた。

「これを、おぼえていますよね」

 聞き間違いかと思った。
 腹に抱きついてきた子供は急に甘えた声を出してしなを作った。

「ねえ、あるじ?」

 頭の中が真っ白になる。
 鼓膜に張り付くような媚びた声に覚えがないはずなかった。これは私の子供ではない。腹にしがみつく体温が気持ち悪くてたまらない。

「嘘でしょう…? あなた…誰なの」
「いやだなあ。本当におわすれですか?」

 くつくつと喉を鳴らせて笑う子供は三歳児の皮を破り捨て、狡猾な光を宿してこちらを見上げる。夕日を反射したその瞳は薄むらさきに輝いていた。

「長谷部…? なんで、ここに…? ねえ、私の子供は? 私の子供をどこにやったの…?!」
「なにをおっしゃっているのですか。あなたのこどもはさいしょからずっとおれですよ」

 違う違う、嘘だ! 私の子供を返して!

「おれがあなたのこどもですよ」

 子供の体をした長谷部は辛抱強く繰り返した。

「昔教えたことをおぼえていませんか? まだたましいの入っていないあなたのややこにとりつこつとする悪霊がいると。その悪霊はねえ、おれのことだったんですよ」

だましていてごめんなさいと、彼は子供らしく謝った。

「あなたが刀解してくれたおかげでおれのたましいは依り代をはなれ、あなたの腹のややこに入ることができました。毎晩呪いをかけておれの霊気になじませておいたので入るのはかんたんでしたよ」
「…じゃあ、あの呪いは、流産させるためじゃなくて? それならあのお茶はなんだったの。鬼灯を煎じたものじゃなかったの」
「あれはただのハーブティーですよ。ああして疑われるようなうごきをしていたら、おれを不審がって刀解してくれると踏んでいたんですよ。あなたも刀剣たちも見事に引っかかってくれましたねえ」

 元気に産まれてきた子供を抱きしめて幸福感に包まれたあのとき、腕の中にいたのはこれだったのか。乳を吸わせて沐浴させて、ちいさな成長のひとつひとつすら喜んでいた、何にも勝るものがないほど大切だと思っていた我が子は、かつて葬ったはずの刀の付喪神だった。

「子供の体というのは不便ですね。はやくあなたと話したかったのに、なかなか言葉をしゃべれるようにならないからやきもきしましたよ」

 思わずちいさな体を突き飛ばすと、子供はあっけなく尻餅をついて地面に転がった。

「ママ」

 子供の声で長谷部が哀切に呼びかける。全身の肌が粟立つ。暑いのに気持ち悪い冷や汗が噴き出してきて止まらない。

「おれを捨てるのですか。おれは本当にあなたのこどもなのに。今までずっと大切にそだててくれていたのに。おれを捨てたら旦那さまはなんとおっしゃるでしょうね。付喪神が生まれ変わったなんてお話をしんじるでしょうか」

 機嫌をうかがうようにしながらにじり寄ってくる子供を目の前に、逃げたくても足が動かない。細くしなやかな腕が再び私の腹に巻きつき温かな体が密着する。

「これで本当にずっと一緒ですね、あるじ。恋人より夫婦より親子の絆は強いでしょう。あなたが死ぬまで俺がそばにいますからね」


 それでは私は永遠に振り払うことのできない血の繋がった肉体を長谷部に与えたのだと理解して取り返しがつかない。あの日の自分に戻ってやり直したいと思った。歴史修正軍に堕ちる気持ちがいまわかった。
 時報を告げるチャイムが日没をお知らせする。
「暗くなるまえに家にもどりましょうね」と弾んだ声で手を引かれて帰る私に、もはや安寧の地はない。




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