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 現世から緊急の便りが届いた。
 母が急な病で入院するという。手術後しばらく病院で治療が必要であるらしく、長い闘病になりそうだと言外に示されていた。
 命に関わる状態ではないため見舞いは急ぎでなくてもいいと書いてあったが落ち着いてはいられない。それに産後は両親に赤ん坊の世話を任せるつもりでいたが、闘病中の母とそれを支える父ふたりに責任を丸投げするのは無理がある。

「失礼します」

 廊下から声をかけられて慌てて手紙をしまった。入室を許可すると、今夜もいつものようにお盆を手に乗せた長谷部が一礼と共に入ってくる。

「……顔色が優れませんね。どこか不調が?」

 心配そうに眉を寄せる目ざとい男に、母のことを話そうかと一瞬悩んだが、どうも嫌な気配がしてなんでもないと首を振った。

「″またにてぃぶるー″という言葉を聞いたことがあります。過酷な審神者業を務めながら母になる準備をするのは大変な負担だとお察しします。旦那様も多忙ゆえ、なかなかお会いできないのはお辛いでしょう。この俺でよければ話を聞くくらいならできますので、なんなりとおっしゃってくださいね」
「ありがとうございます」

 長谷部は頬を緩めて温かい湯呑みを手渡してくる。
 爽やかな香りのするそれをひとくち口に含んだところで、なぜか違和感を感じた。
 わずかな差異だが、舌に感じる渋みが違う。
 こっそりと視線を上げてみればこちらを凝視する藤色の眼と目が合った。

「どうされました?」

 慇懃な笑みで隠された思惑の底は見えない。
熱くて飲めないのを装って、ズズッと音を立ててわざとゆっくりと口に含む。
 ただの思い過ごしかもしれない、だけど一瞬感じた不審感は払拭されるものではなく、喉に絡みつくようにその日のお茶は尖っていた。
 意を決めて私はいったん湯呑みを畳に置き、芝居を打つことにした。

「…実は、少し風邪気味のようで、寒気がして。湯たんぽを用意してはくれないでしょうか」

 これには長谷部も弱かった。慧眼な彼とはいえ私のお願いが絡むと恐ろしく盲目になるのである。

「なんと! もっと早くおっしゃってくれればよかったのに。すぐに用意して参ります!」

 こうして座っているのも良くない、早く横になってくださいと布団に突っ込まれ、掛け布団を鼻まで引っ張られる。長谷部は持ち前の機動を生かして廊下を猛ダッシュしていった。
 足音が聞こえなくなってから体を起こす。男が席を立った隙に、残っていたお茶を自室備えつけのトイレに流して捨てた。
 十分と待たずに帰ってきた長谷部は、湯たんぽだけでなく、どこから見つけてきたんだかモコモコ靴下と腹巻きと、オイルヒーターまで持ってきたので苦笑してしまう。こうして私を思いやってくれる忠臣っぷりを疑うようなことは、本当はしたくないのだ。

「明日はご無理をなさらずにゆっくり寝ていてください。俺が看病しますから」

 まるで重病人のように手を握り締められる。悲痛に顔を歪める長谷部にわずかに良心が痛み、まだ風邪ときまったわけじゃないですよと笑って、おやすみなさいと告げた。



 腹の上が重い。ぶつぶつと呪文のような声が聞こえる。またあの夢か。と半ばうんざりしながら思って、いや違う。夢ではない。
 急に意識がクリアになる。金縛りにあったように体は動かないが、耳に聞こえる音は清明だ。誰かがいる。私の上に乗ってなにごとかを呟いている。
 どうして。今夜は護衛の者がいなかったのか。妖の類であろうと侵入を許さない刀剣はたくさんいるはずなのに。
 恐ろしくてたまらないが、おそるおそる薄目を開ける。助けを呼ぶ前に自ら戦わなくてはならないかもしれない…と覚悟を決めながら視線を下ろすと、そこには見覚えのある影がいた。
 私の衣類越しの腹に口を付けて、ぶつぶつとなにかを囁いている。瞳だけが獣のように爛々と光っていた。
 先ほどまでとは違う恐怖がこみ上げ、思わず喉が引き攣る。わずかな音を彼は聞き逃さなかった。

「あるじ?」

 甘えるような口振りで呼びかけてくる。唇が三日月のように裂けて笑っている。

「おやおや、目を覚ましてしまったんですか」

 男は悪びれる様子もなく顔を上げた。

「…長谷部……。なにを……」

 審神者の寝室に許可なく忍びこんで声もかけずにいるなど尋常ではない。
 ふっと彼が息を吐き、私の腹の上に手のひらを置いた。温かい体温がしみていく。顔を近づけてきた長谷部は真剣な表情になった。

「主、ここには悪霊がいます。刀の依り代に呼ばれたて集まったが、付喪神になり損なった浮遊霊です」
「……霊?」
「はい。鍛刀した刀に魂を降ろす際、数多の霊が集まって、我先にと依り代に入ろうとします。競争に勝つのはただ一つのみ。それ以外の霊は容れ物を求めて本丸をさまよい、まだ魂の入っていない主のややこを狙っているのです」

 なにを言っているんだかわからない。
 それで俺は、と長谷部が言葉を続ける。
 ゆっくりと文字を書くように手のひらが動く。

「主のややこに悪霊が取り憑かぬように、毎晩こうして守りの呪文を唱えていました。心配させぬようにと主には黙っていたのですが逆に驚かせてしまったようですみません。いつもぐっすり眠っておられるのに……今夜はどうしたのでしょうね」

 一瞬不審そうな表情をしたがすぐに申し訳なさそうに眉を下げる。彼の言葉の真偽のほどはわからない。不気味すぎて、私の寝起きの頭は思考を放棄している。

「もうすぐ終わります。少しのご辛抱を」

 振り払うこともできず、彼の口が再び呪文を唱えはじめるのを黙って見守る。一言一句聞き取れない、異国の言葉のようで妙に日本語に近い意味不明な音の並びが気味が悪い。まもなくそれは終わり、腹の上にほんのりと温かい熱の感覚を残して男の手は離れていった。

「これで大丈夫ですよ」

 こちらを安心させるように微笑む長谷部だが、勝手に部屋に入ってきたあげく意味のわからない呪文を唱えてられて、私の心が落ち着く わけがない。
 長谷部がなにかを企んでいるのは事実だ。私ひとりの体ではない。腹の子になにかあってからでは遅い。危害を加えようとしているなんて思いたくはないけど、でも、昼間に目にした鬼灯の橙色を思い出す。あれは? まさか、あの根を掘り返したのは。それで私がいつも飲んでいるお茶の原料は?
 考えるのも嫌なのに糸が繋がり出す。もう無理だ。
 長谷部がゆっくりと私の体から下りていく。彼はなにか言いたげだったがこれ以上寝室に留まってほしくなくて、私は眠くて仕方ないのだと言わんばかりに布団を被り直して目を閉じた。

「驚かせて申し訳ありませんでした。失礼します」

 いささか意気消沈したような彼の声が向こうから聞こえて、襖が閉じる音がした。そろそろと足音が遠ざかるのを確認してから、病に倒れた母親に会いに行くという口実で、私はいったん現世に帰ろうと心を決めた。長谷部と離れなければならない。



「主君、主君」

 荷物をまとめていたところ、開け放してある襖のかげから明るい声がかかって、見れば秋田がにこにことこちらを見ているのだった。

「おはようございます! 主君にあげるお花を持ってきました!」

 ちいさな手の中から一本の花が現れる。鮮やかな朱色にぎょっとしたがすぐに見間違いだと分かる。ホウセンカだった。
 嬉しそうに手渡してくれた彼の手ごとそれを包 み込んだ。秋田の手は柔らかい。もちもちと弾力がある子供の肌が気持ちいい。

「ありがとうございます」

 頭を撫でてあげると秋田は桜を舞わせて喜んだ。こんなに可愛い短刀たちと長らく続けてきたやり取りも、私が現世に帰ればしばらくお休みになってしまう。
 キャリーバッグに気づいた彼が首をかしげた。

「お荷物をまとめて、どこかに行かれるんですか?」
「あとで皆に話すつもりなのですが、実は現世に帰宅する予定でして」
「えーっ!! 主君、いなくなっちゃうんですか?!」

大声を出した彼に思わずしーっと指を当てる。

「数日間だけのつもりですよ。母親が病気なのでお見舞いに行きたいのです」
「あ、そうなんですね…。お母さん心配ですね。それでしたら赤ちゃんが産まれてからのことも相談しないといけませんね」

 さすが人の営みに精通した短刀だけあって理解が早い。

「秋田たちには迷惑をかけますがよろしくお願いします。私の留守中は夫が一日一度顔を出すので、審神者代理として彼の命に従ってください」

 すでに夫には話を通してある。彼も自分の本丸での仕事があるためずっとお願いすることは不可能だが、数日間だけならなんとかしてくれるだろう。私の刀剣たちとも面識があるので波風は立ちにくいはずだ。

「わかりました! 主君もお気をつけて。僕、兄弟たちに知らせてきてもいいですか?」
「お願いします。私からも説明したいので、朝食後に大広間に集まるようにとも伝えてください」
「はーい!」


 秋田が去ったあと、手の中に残されたホウセンカの花を見つめる。毎日、毎日、繰り返すこのまじないのせいで、いったい何本の花が摘み取られて命を潰したのだろうか。花は、言ってしまえば植物の生殖器官である。私の腹の子を生かすために何十の、あるいは何百の、実るはずだった種子の未来は奪われたのか。美しい刀の付喪神たちはきっと理解していない。もとは鉄くれだったもの、しょせんは玉鋼でできた脳しか持たない無機物なのだから。
 花瓶の中には前日に生けた花がある。ホウセンカと取り替えようと思ったが、昨日から水を吸っていた花はみずみずしく、まだ枯れてはいない。くずかごに捨てるのは忍びないので庭の土に返してこようと思って腰を上げた。
 廊下を曲がり、濡れ縁に面したところまで歩いている途中、急に強い力で腕を引かれた。
叫び声を上げれぬようにがっちりと口を覆われて、近くにあった空き部屋に連れ込まれる。

「現世に帰るとおっしゃっていましたね」

 耳元で熱い声が聞こえて、必死でそちらに視線を向けると、長谷部の目があった。

「貴女の考えは分かっていますよ」

 口を開きかけたとたんに手袋を噛まされて声を封じられる。慎重に、しかし素早く閉められた襖が乾いた音を立て、部屋に差し込む光を遮断した。
 薄暗い中で私の呼吸がうるさく響く一方、間近で見上げる長谷部の顔は落ち着き払っていた。

「貴女は逃げるつもりだ。現世に帰って、そのまま両親と赤子と平和に暮らしたいのでしょう。俺が恐ろしいから」

 氷を飲まされたかのように腹の底が冷えていく。図星だった。数日間の帰省と称してはいたが、実質は避難である。現世に逃げている間に今後の方針を立て直そうと考えていた。
 せめて子供が無事に産まれてある程度の大きさに育つまでは、危害を加えるかもしれない不安因子から遠ざけたい。時間戦争という終わりの見えない戦いに加担している以上、己の身の危険は重々承知ではいるが、身内の刀に寝首をかかれるような事態は避けたかった。
 暗い怒りと興奮に光る瞳が私を見据えている。

「そんなに腹の子が大事ですか」

 ぎょっとした。男の手が着物ごしに腹の上を撫でる。中に入っている存在を確かめるように、ゆっくりと膨らみの形をなぞる。なにをされるかわからなくて、怖くて震えてくる。頼むから、そこにだけは手を出さないでくれ。

「あんな凡庸な男との子供が。優しいだけで取り柄のない男じゃないですか。審神者としても貴女のほうがずっと優秀だ。釣り合わない。ああ、どうしてあんな男と夫婦になったのですか…あの男さえいなければ、くそっ」

 長谷部が舌を打つ。腕の中に抱きすくめられ、呼吸も忘れたまま彼の怒りの発露を聞く。

「予測できていたことだった。貴女が孕む前にあんな男殺しておけば良かったんだ。旦那だからと思って遠慮していたらこのザマだ」

 嘘でしょう、と目で訴えれば彼は悲しみを押し殺すように顔を歪める。信じたくない本音を知ってめまいがする。赤ん坊だけでなく夫までもが長谷部の標的になっている。どうして。長谷部は誰より忠臣だった、誠心誠意仕えてくれていた刀だったのに。どうして彼はこんなんになってしまったんだ。

「信じられないという顔をされていますね。俺が貴女のことを邪な目で見ていたとは思いもしませんでしたか」

 いや分かっている。本当は知っているのに知らないふりをしていた。ずっと彼の感情を見えないものとして蔑ろにして、抑圧させてきたから、留めていた洪水が一気に溢れるようにツケが回ってきたのだ。ときおり向けられる熱い目線、やたら艶かしく握られる手、それらの意味を私は頭の片隅で分かっていて目をそらしていた。言外に示される恋情を理解してしまえば向き合うしかないと分かっていたからである。
 私は既婚者だから。心に決めた相手がいるから。それが最大の免罪符のように、あらゆる恋情を跳ね返せると思っていた。だが相手は刀の付喪神である。倫理や道徳の通じる相手ではないと失念していた。

「主。あんな男との子なんて産む価値がありませんよ。その腹を空にして、俺との子を作り直しましょう。ねっ。もう安定期なのですよね。あれほど毎日毒を飲ませたのに流産しなかったとはしぶとい。こうなれば腹を裂くしかありませんが、なに、痛いのは一瞬ですよ。俺の切れ味は格別ですからね」

 全身から血の気が引いて足元から流れ出るように感じる。背後で抜刀する音を聞いた。いまやガタガタと体中が震える。長谷部はもう私の味方ではない。私の刀ではない。

「……はせべ」

 ゆるんだ手袋のすきまから、か細い声が漏れた。

「はい、主。貴女の長谷部ですよ」

 喜色に溢れた声が耳元をくすぐる。怖くて悲しくてたまらない。だけどもう終わりだ。私は審神者であなたは刀だ。主従の契約を結んだその時から、審神者に対する謀叛は大罪として扱われる。
 彼の狂気が振り上げられるのと私の唇が動くのはほぼ同時だった。

 ずん、と、まず、衝撃が疾った。
 沈黙。一拍の後に、ガシャン、と重い金属音が響く。

 息を乱しながら振り返れば、抜き身の日本刀と、紐で繋がれた鞘が、床に落ちている。
 ただの金属に戻った長谷部はもう動かず、しんと、無機物の静けさで転がっていた。

 這うようにして廊下に出れば、気配に気づいたのか薬研をはじめ短刀たちが曲がり角の向こうから顔を出すところだった。

「大将!」

 駆け寄ってくる薬研の、その細い腕に託すように、私は鞘に収めた彼の本体を突き出した。

「長谷部を刀解処分します」




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