6


「あれ、ここにいたのかい?」

執務室にひょいっと顔を出した髭切は、私と、私の背にくっついている今剣を見てぱちぱちと瞬きをした。

「……あれ? おかしいな…?」

首を傾げる彼の意図が分からず、私と今剣もきょとんと髭切を見つめ返す。今剣は本日の近侍で、私たちは執務室にて提出の期限の迫った書類を片付けているところだった。
よく晴れた昼下がりだった。廊下から忍び込んでくる冷たい空気が冬の訪れを感じさせる。髭切が本丸に来て一カ月は経った。ここでの暮らしもだいぶ慣れたきたであろう髭切が、いったい何を困惑しているのだろう。彼には今日のお勤めとして畑当番を任せていたはずなんだけど。

「髭切、どうしたんですか?」

今剣が私の気持ちを代弁してくれる。ジャージ姿の髭切が困ったように微笑み眉を下げた。

「いやー、弟を探していてね」

膝丸なら、髭切と一緒に畑当番をお願いしたはずだ。

「見当たらないの?」
「倉庫に肥料を取りに行ったはずなんだけど、なかなか帰ってこなくてね〜…。もしかして在庫が切れてたのかな? と思って屋敷の中まで探しに来たところだったんだけど…、」

そこで不意に髭切が言葉を切る。顔を曇らせ、なにかを言い淀んだ心配そうな目で私を見る。明らかに不穏なものを感じた。

「どうしたの?」
「んー…。僕の気のせいだったらごめんね、君の霊気と弟の霊気があまりにも似ていたから…てっきりここにいたのかと勘違いしちゃったんだ」

ぴし、となにかが胸の内で凍結する。血の気を失う私に髭切は慌てたように手を振った。

「たぶん僕の勘違いだよ……気にしないでね。名前どころか霊気まで分からなくなっちゃうなんて呆けたものだなあ、あはは…」

じゃあ弟を探しに行くねー、と軽く言い放って、髭切は廊下を歩いていった。
取り残された私と今剣の間に沈黙が落ちる。

「………今剣、そうなの? 分かる?」

背後に向かって問いかける。

「うーん……。ぼくは髭切とちがって膝丸のきょうだいではないし、そこまでつよいむすびつきがないので、よくわかりません…」

今剣も戸惑いをあらわにしていたが、私が黙り込んでいると励ますようにぽんと肩を叩いてくれた。

「あるじさま、きにしないほうがいいですよ! 髭切はふだんからぼけぼけなんですから、ただのかんちがいですよ!」

きゅっと背中に抱きついてくる温かい子供の体温。いくぶん心がほっとして、健気な今剣の優しさを愛しく思った。細い腕を撫でて感謝を伝える。
と、首元に顔を埋めていた彼が「ん?」と声を上げる。一難去ってまた一難という心地だ。

「またなにかあった?」
「ここ、なにかついてますね」

今剣の指が首の後ろに触れる。まさかと思って振り返る。噛み痕でもついていたのか。あれほど見えるところにはつけるなと言ってるのに。
しかし今剣は怪訝そうに眉をひそめている。ふと冷静になって思い返したが、彼は元々寝所に置かれるような短刀であり、情交のあれこれについて一通りの知識はあるはずだ。見目が幼いとはいえ意外と中身の成熟している彼は、鬱血痕くらい見なかった振りをしてくれる気づかいはあると思う。
彼の細い指がそこを撫でた。

「なんでしょう…。つるつるしてますね」
「え……?」

確かにそこを触られる感覚は他の部位とは違った。ただの皮膚よりも固い、それでいて滑らかでしっとりしていて、繊細な神経が通っているようだった。

「……うろこ」

鱗。

「……は?」
「うろこみたいなものがはえてますよ…これ、なんでしょう…」

嘘だろう。
首の後ろに手を回し、今剣が触っていたところを己の手で触れる。そこは柔らかく私の指を押し返す弾力があり、ひんやりとしていて、爪を立てればつるつると滑った。
今剣に鏡を持ってきてもらって見てみれば、そこには薄桜色に光る小さな鱗が生えていた。





「成る程。兄者はそう言っていたのだな」

闇の中で金色に光る、縦に切れた瞳孔が私を見ている。
夜になるとどこからともなく現れる男は、このところ毎晩のように私の寝所に入り込んでは体を貪っていた。戸を閉めていても音もなく忍び込んでくるのはさながら蛇のようである。

「やはり兄者には分かるのだな」

布団の上に座っている私の背後に擦り寄られて、肩に顎が乗せられる。体温の低い手が片頬を包んだ。

「……私には、なんのことだか分からない」

一体なにが己の身に起こっているのか。

かつてこんのすけに、身体接触によって霊気を送り込まれている、だから過剰な接触は避けろと忠告された。いま、身体接触の極みである性行為を日々行っているのだから、膝丸から私に送り込まれる霊気は相当なものだろう。
しかし、刀剣男士と交わりすぎると神気を注ぎ込まれて人間に戻れなくなるというのは単なる噂話だ。もしそれが事実なら審神者と刀剣男士との性交が政府によって禁忌とされるはずだし、むしろ自ら神格を手にしようとして刀剣男士を強姦する審神者だって増えるはず。
とはいえ、日中に髭切と今剣に指摘された異変は、膝丸が引き起こしたことに間違いないだろう。性行為がきっかけかは明らかでないが。

「膝丸、私になにをしたの」

振り向かずに問えば、髪を掻き分けて指が首筋を這う。膝丸は質問には答えずに、私の首の後ろを撫でる。滑らかで細かい、得体の知れない鱗の密集した部分。

「長かったな、母様。貴女が本当に母親となってくれるまで、随分かかった。だがこの日を迎えられて嬉しいぞ」

不可解な優しげな声に背筋が寒くなる。膝丸の顔は見えないけど満足げに目を細めている様が脳裏に浮かんだ。

「……なにが起こってるのか、ちゃんと説明して」

するりと片手がお腹の辺りに伸び、そのままゆっくりと這って臍の下くらいで止まった。

「申し上げたとおり、貴女が母になったからだろう」

頭が凍りつく。理解ができない。
下腹部を撫でる手がやけに優しくて吐き気がする。吐き気が?

「……でも、でも刀剣男士と人との間に子供はできないって、こんのすけが」
「貴女はもうただの人間ではないのだ。俺を育てる過程で人ならぬものに変性していったのを気づかなかったか?」
「な……なに言ってんの……?」
「貴女が俺に霊力を注いで育てて下さる一方で、俺も貴女に霊気を注ぎ返していたのはご存知だったか?」

それはかつてこんのすけが言っていた。膝丸は肌を介して霊気を混合させていると。今の彼の言い方を見るに、単純に甘えてくっついていた結果というわけではなくやはり意識的にやっていたのだ。

「俺と貴女は霊気を通わせ、本当の母子のように同一の気を共有して生きてきた。我らにとっての霊気の繋がりは、血よりも濃い絆だ。……人と刀の付喪神で子供ができないのは何故だと思う? 種族が違うからだ。人間と妖霊では巡る血が、霊気が異なるからだ」

当然だ。人間と、妖霊の類である刀剣の付喪神は、根本的に異なる存在。なにかが実るはずがない。

「しかし長い時間をかけて互いの体に霊気を馴染ませたらどうだろうな。存分に混ぜ合わせておけば、我らの存在は種族を越えて近しいものになる。現に兄者が俺と貴女の霊気を間違うくらいには近しくなっている。なれば万に一つ子を授かる奇跡も起こるかもしれない」
「……ねえ、それ…分かってやってたの? あなたは子供のころから、将来私を孕ませることを計画して、甘えるふりして、抱きついて、霊気を混ぜ合わせていたの?」

戦慄を抑えれずに声だけでなく体までも震わせながら問うと、膝丸は耳元を擽るように小さく笑った。

「俺は貴女に本当の母になってほしかったのだ」

他意はない、本当にそうなってほしかっただけなのだ。貴女を愛していたから。
そう告げる膝丸はやはり人の心なんて通じない、見目が美しいだけの化け物だった。

「……冗談じゃない、わたしは…化け物なんかになりたくない…!! ねえ…なんなの、なんなのよこの鱗は! こんなっ、蛇みたいな…! 嫌だ…妊娠なんてしたくない…! ただの人に戻してよ…!」

叫ぶ私の頬に、ぴと、と膝丸の顎が擦り付けられる。甘えるように言い聞かせるように。

「もう遅いのだ、母様。貴女の胎には俺との子がいる。それにその鱗に害はない。俺の子を孕んだために貴女が人の体から別の次元へと一歩踏み出しただけだ」

ぬるい体温を頬に、背中に、下腹に感じながら、ぼたぼたと涙が落ちるのは止めようもなかった。

「なんで……なんで私が化け物になって化け物を孕まなきゃいけないの……!」
「付喪神の母親になるとはそういうことだろう」

かつて喜色を溢れさせて私の胸に飛び込んできた幼子を思い出す。母様と無邪気に慕ってきた可愛い可愛いあの子は、とても私の手に負える子供じゃなかったのだ。それとも子供のために人としての生を捨てるのが、母として正しい在り方だったのか。ならばこれは正解だったのか。

「これからはこの子にとっても貴女が母親となるな」

愛しげに腹を撫でる膝丸の、昔から変わらない湿り気のある甘え声が耳元で響いた。

「そうだろう? 母様」


する、と撫でられた首筋にはいつの間にか鱗が広がっていて、私は絶望した。
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