言葉を使い果たした後になにが残る? 離れてゆく心を繋ぎ止めることが出来ないと気づいた後。己の声になんの価値もないと悟った君は、血を吐くような憎しみに這い回り、喉を掻き毟る。だが翌朝には全てを許そうと閃いて立ち上がる。薄汚れたガードレールの向こう、きらめく海を眺めて愛の記憶を思い出すだろう。枯れ果てた喉はあふれ出る悲しみで潤う。そして声を取り戻した君は再び地を這いながら咆哮する。

夜毎に主は怪獣になる。

襖の奥で渦巻く気配を察したのは先日のことだ。膝丸は戦衣装を着て廊下に立っていた。視界の端が闇に侵食されている。時刻不明、夢か現かも分からない異次元のような本丸で、いつの間にか瘴気のもとに辿り着いてそこにいた。
襖に手をかけ、刀を抜く。慎重に開いた隙間の向こうは、さらに密度の濃い闇が広がっている。黒い影がなんの形をしているのか。夜目の利かぬ膝丸に判別することは出来ないが、畳を埋め尽くすほどに巨大で、禍々しい姿をしているのは分かった。
妖ならば斬らねばならない。しかしこの部屋の、見覚えのある間取りは、間違いなく彼女のものだった。
「主」
彼の主人であるはずの人間は、ぎょろりと火の玉のような目玉を向けた。低い唸り声が空気を震わせる。それはただの威嚇や警戒ではない、知性を持った呼びかけだった。
怪獣は畳に爪を立て、刃物のように生え揃った牙を打ち鳴らした。噛み合わせた口の端から火花が散る。燃える朱色の花がいくつも宙に咲き、部屋の中を明るく照らした。言葉を失った喉からこぼれ落ちる悲しみが炎に変わる。
ああ、泣いているのだな。牙の間から雫のようにあふれる炎を見て膝丸は刀を戻した。次から次へと畳へ転がっていく球体は美しい。獣は膝丸にもっと近くに寄れと目線で命じた。うながされるままに部屋に踏み入れる。足元の炎は膝丸の足を避けるように道を開けた。
獣はゆっくりと目を閉じると、喉の奥で何事かを唸る。人の耳には理解できない呪文。炎のひとつが大きく膨らみ、ゆらゆらと蜃気楼のように映像を映し出した。主はこんな魔法が使えたのか。現実味のない出来事を淡々と受け止められるのは、やはりこれが夢だからだろうか。
薄く広がった炎のスクリーンに夜空が浮かんだ。紺碧の幕いっぱいに散らばる星。海岸だろうか。膝丸には見覚えのない場所だ。やがて視界に黒くたなびくものが映る。潮風を浴びて絡まる彼女の髪。もしやこれは、主の記憶ではなかろうか。錆びついた海街の下り坂。薄暗くよそよそしい他人のベッド。ありふれた手料理とマグカップになみなみと注がれたココア。どこにでもある風景、けれど二度とは返らない。渦を巻き、色を混ぜ、震える、あらゆる記憶。
その全てを膝丸は見た。自分が主人公になった映画を見るように。
夢を喰う獣が獏なら、夢を見せる獣はなんだろう。
主はなぜ俺にこんなものを? 問いを込めて眼差しを向けた瞬間、獣は巨大な口を開けて咆哮した。びりびりと鼓膜を震わせる音と共に世界に亀裂が入る。ひび割れた向こうから光の筋が差す。
(夜明けだ)



「主」
「なあに」
「昨日の夢を覚えているか」
振り向いた顔には神妙な影が浮かんでいる。あまり感情の出ない瞳が膝丸を見上げ、昨夜のように昏く光った。暖かな午後、短刀たちの走る音を遠くに聞きながら、深い深い沼に沈んでいく。真夜中の獣と同じ、燃える瞳の奥へ。
「忘れることにしているの」
淡々とした声はわざと感情を抑えているようだった。主はあまり、軍事以外の用件で刀を頼ることはしない。一言、苦しいと伝えてくれたら、助けてくれと請われたら、彼女の霧を払う刃となるのに。これ以上踏み込むな、と暗に示す言葉を聞いて、膝丸はそうかとうなずき部隊に戻る。
(忘れたいのは夢ではないだろう)

出陣を終え、夕刻に向かった先は倉庫の一室だった。埃っぽい木の棚が並ぶ狭い道を歩き、目当てのものを探す。視界に入るのは支給金で集めた本、映画、音楽CD。違う。倉庫の奥へ進み、膝丸が手に取ったのは装飾のはげた四角い箱だ。短刀がいっとき好んで見ただけで、あとはみな興味を失くしてしまった。有名な怪獣の出てくる映画だ。
部屋に持ち帰り、再生装置を起動させる。ビデオテープを巻き戻す古くさい音が膝丸は好きだった。壊れかけの機械がこのまま止まってしまうのではないかと不安になる一方、次第に加速していく振動音が心を弾ませる。ひと昔前の時代に普及し、とっくのとうに廃れたそれは、膝丸には知り得ないはずの郷愁と物悲しさを呼び起こした。
液晶の画面に荒い映像が浮かび上がる。安っぽい作り物の森、高さのないビル、偽物のコンクリートを破壊する凶悪な怪獣。二足歩行のトカゲのようなそれは太い尾を振り回し、口から炎を吐いて街を焼き払う。圧倒的な力と怒り、価値のなくなった言葉のかわりにこぼれる炎。怪獣がもたらすのは破壊だった。なにかを叫び、憤怒を撒き散らすように暴虐の限りを尽くして、そして結局は倒されてしまう。おきまりのパターンだ。
敗北した怪獣は情けない声を上げ、白い腹を仰向けて海に沈んでいく。負ける運命なのだ、人間にとって敵だから。
三十分もない短い映像が終わり、世界がひとつ救われた。
人類は栄えて、怪獣は死ぬ。言葉なき怪獣の嘆きは誰にも聞かれることはない。ビデオテープの停止ボタンを押す。気だるい音が止まり、ひとつの物語が箱の中で完結する。昨日、主が見せてくれた記憶のひとコマみたいに。
画面が黒くなったあと、膝丸は目を閉じてある光景を夢想した。夜中の、怪獣と化した主が街を破壊して回る様だ。
空想の主は怒りと憎しみを隠しもしない。炎を吐き、尾を振り回し、鋭い牙で人間たちを木っ端みじんにしていく。圧倒的な力の前で塵のように消えていく文明社会。愉快だ、と思った。街一つ荒野にする主を見てみたい。心が踊るような高揚を覚える。
もう一度、あの怪獣に会わなければ。



兄が斬った鬼はもともとは人間の女だったという。きっかけさえあれば、人は簡単に別のものに姿を変えてしまうのだ。
あるいは鬼に。生きながらにして呪いの霊に。
あるいは白い花に。真珠貝で掘った墓へ、百年経って星屑から落ちる雫に。
蛇に、狼に、鳥に。名もなき獣に。

青い炎の柱に囲まれながら、膝丸は獣と対面していた。寝床に就いてからいつの間にこの部屋を訪れたのか、全く記憶にない。誰かの夢の中に呼び寄せられたかのような感覚は先日と同じだ。違うのは、獣が体を起こして膝丸を見下ろしていることだった。主と同じ色の瞳が膝丸を見据えている。爛々と光るまなざしは憎悪に燃えている。君はそんな顔もできるのだな。
「その牙と爪があれば憎い相手を殺せるだろう」
主は目元を歪めるだけで返事をしなかった。こんな姿に変貌するほど傷ついているのに、歯止めをかける情けはあるのだ。
「愛していたのだな」
青い炎が過去の光景を映す。見知らぬ誰かの影と、寄り添って笑う主の姿だ。膝丸が見たこともないような、幸せそうな華やかな笑顔。主は爪の生えた足を振り下ろしてそれを潰した。ちりちりと消えた炎は青いガラスの破片に変わる。
きっと君は朝になるたびに破壊した思い出を宝石箱に集めて蓋をするのだろう。言葉にできない憎しみと、叶わなかった未来と、拭いきれぬ愛情を、捨て去るために怪獣になるのか。
「主」
潰しても潰してもシャボン玉のように生まれていくたくさんの思い出たち。過去を追想しても意味はない。美しい炎の玉を潰すたび、主の足の裏には火傷とガラス片の傷が増えていく。膝丸は刀を抜き、目の前の獣へ向ける。
「俺は刀だ。出来ることはこれだけだ」
刃の輝きが獣の瞳に映る。主は目を細めた。口元から火の玉がこぼれ落ちる。過ぎ去りし日々を悼んで泣いているだけでは情けなく、しかも膝丸の見も知らぬ人間との思い出に囚われているなど、不愉快きわまりない話だ。
「源氏の重宝の持ち主として恥じない強さを見せてみろ」
膝丸を見つめていた瞳が揺らぎ、逡巡し、人間らしい葛藤に身を任せたあとーー、唐突に獣は吠えた。



「あなたがいないと生きていけないって泣いて縋ればよかったな。一人で生きていけるって気づく前に」


未完(イメージソングはタイトル通り「嵐ヶ丘:鬼束ちひろ」です)
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