紺色の空に切れ込みを入れたように朝日が顔を見せていた。

「どこまで行くの? 膝丸」

腕の中で娘が眠たそうな声を上げる。

「わたしたちの家にかえろうよ」

ざくざくと足元の小石が音を立てた。膝丸は立ち止まって崖の下を一望する。空の色に照らされて娘の頬は林檎のように赤く染まっている。

「帰れないんだ」
「どうして?」
「俺はもう帰れない」

本当は一生胸に秘めておくつもりだった。娘の母親に当たる女――つまり膝丸のかつての主に、並ならぬ想いを寄せていたなど、墓場まで持っていくつもりだったのに。


主が別本丸の男と結婚したのは五年前になる。
翌年に授かったちいさな命を産み落として、あっけなくこの世を去った。
残された赤ん坊の世話を、多忙な旦那に代わって刀剣たちがやんやと手を焼いた。膝丸も懸命に彼女の忘れ形見を育もうとした。
それだけ。ただそれだけのことなのに、ひどく疲れていた。
本丸で生まれ育った子供は付喪神を恐れず、膝丸にもよく懐いた。屈託のない笑顔がどんどん生前の主に似ていくのを見るにつれ、名付け難い感情が膨らんでいくのを自覚していた。そう、主は子供のように無邪気な女だったのだ。夢見がちな年若い娘がなぜ歳上の審神者の男と結ばれたのか。決まり切った話だ。政府の圧力があったからだ。審神者同士の婚姻を勧める。無名な若い審神者に、国の方針から逃げ出せるほどの権力はなかった。
見合いの席に何度か同行したのは膝丸だった。夫候補である男を見定めるためであったが、幸いにも、男はまっとうに主を愛するつもりらしかった。

「主、あの男は君のことが好きだ」

数回の面会を重ねた後、二人きりの執務室で、縁側の外の雨を眺めながら彼女に告げたのを覚えている。ぽたぽたと紫陽花の葉に雨粒がぶつかる心地よい音に混じって、主は愉快そうに笑った。

「やあね、膝丸。彼より先に言っちゃうの」
「君も分かっているだろう。あの男は君を妻にするつもりだ」

主はくすくすと笑った。自分の立場を理解しているのかいないのか、緊張感のなさに苛立ちを覚える。まるで家畜のように交配の相手を決められるというのに、なぜそんなに飄々としていられるのか不思議でならなかった。

「このままだと、君はあの男と婚姻するのだぞ」

語気を強めると彼女は困ったように微笑み、縁側に立つと白く光る雨の庭を見上げた。

「そうね。実感はないよ。私、恋ってなんだかよく分からないの」

振り向いた主の笑顔はどこか悲しそうに輝いていた。

「だからね、待ってるの。王子様が私を攫ってくれるのを」

膝丸はなにも言えなかった。人の身を得たばかりの付喪神には、彼女の言葉の奥に秘められた意味を理解するには日が足りなかった。そうして悶々としているうちに主は予定通り式を挙げ、子を授かり、新しい命と引き替えに消えていった。


本当は誰にも言わないつもりだったんだ。主のことを好きだったなんて。死んだ女に未練があるなんて、ましてや夫に当たる人物の前で吐露するつもりはなかったのに。

「君が妻に懸想していたのは知っていた」

突然告げられた言葉に、娘を寝かしつけた手が凍りついた。夜更けに帰ってきた男は、疲弊した笑顔で膝丸の前に立っていた。

「彼女が君の気持ちを知れば、僕との婚姻を破棄して君を選んだだろう。だから早くに手を打った。政府に取り入り、圧力をかけ、挙式を急いですぐに子を産ませた。彼女が病弱なのは分かっていたが、君に盗られたくなかったんだ」

それを聞いた途端に全身の血が沸騰し、気がついたら太刀を抜いて男に斬りかかっていた。俺のほうが、ずっと前から主を好きだった。なのに、なんで、こんな男に。いや、奪われたのは自分が手を打たなかったからだ。主の腕を引いて逃げ出さなかったからだ。
なぜ今になって真相を打ち明けたのか、男の意図は分からなかったが、すでに確認するすべもない。懺悔じみた言葉だけが遺言となり、寝静まった部屋に血まみれの肉の海が残っていた。

そして眠る娘を抱いて本丸を抜け出したのが昨夜のことだ。どこまで逃げればいいのか、白々と明けていく空を眺めながら膝丸は途方に暮れていた。崖の下にはどこまでもどこまでも森と川が続き、果てには海が広がり、行くあてがないように思える。娘はしっかりと目を開き膝丸を見つめている。

「膝丸、てきと戦ったの?」

ちいさな指が頬にこびりついた返り血をなぞる。この子にはもう父も母もない。膝丸は主によく似た娘の顔をのぞきこんで抱き直す。

「君は遠くに行きたくないか?」

娘は初めて見る景色に目を見開き、青と緑の色彩にまぶしそうに微笑んだが、やがて振り向いて首を振った。

「いっしょに帰ろう。わたしたちのお家へ」

王子様が攫ってくれるのを待ってるの。
そう言ってくれた彼女はもういない。

家族ごっこも悲劇ごっこもお終いだ。
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