執務室、八つ時過ぎ、報告書をひとつ仕上げた折に「そろそろ休憩しようか」と呼びかけると、近侍である膝丸は素直にうなずいた。
 筆を置いた私たちは、なんとはなしに部屋の奥を見やる。目につくのは簡素なちゃぶ台とその上に乗った大きな木の盆。こんもりと盛られているのは、遠征の土産やらこんのすけに頼んで取り寄せた現世の洋菓子やら、味も形も様々な甘味である。太陽もゆるやかに西へ向かう午後、この時間の休息にはおやつが必要不可欠というものだ。
 茶請けの菓子を選ぶのはその日の近侍の役目だった。一日中審神者の仕事に付き合ってくれた労いの意味も込めて、好きなものを選んでもらうことを習慣にしている。短刀などは大喜びで思い思いの菓子を取り上げていくが、別段甘味が好きではないと言う膝丸は、私に決定権を譲ってくれることも多かった。
 そんな彼だが、今日は盆を一瞥するなり不思議そうな声を上げる。

「あれはなんだ、主」

 小包装のチョコやお煎餅に混じって、病院で処方されるような白い包装紙がひとつ、異彩を放っていたのだ。

「ああ、それはね」

 私はつい笑みを浮かべながら膝丸が指差したその袋を見やる。

「不思議なお薬だよ」

「……は?」


 〜恋の内服薬〜
 用途・片想い
 時間・お好きなタイミングで
 使い方・ドキドキムラムラさせたい相手に♡

 膝丸は恐ろしく怪訝そうな顔をして、安っぽいピンク色で印刷された文字を見つめた。





 それを手に入れたのはつい昨日のこと。面白いものを見つけたよ! と買い物帰りの乱が駆け寄って来たのが始まりだった。
 その日、当番だった彼らは気分を変えていつもと違う方面の茶屋街に足を伸ばしたのだという。初めて覗いた万屋は歓楽街特有の雑多な雰囲気が新鮮で、少々いかがわしい品物まで取り扱っていたというから、刀剣たちの興味を引くには十分だった。めぼしいものを支給金で買い漁ってきた乱が「これ、主さんへのお土産だよ。意中の人に使ってみたら?」とウインクしながらこっそり渡してきたのが、この『恋の内服薬』という代物だった。

 いわゆるジョークグッズの類である。
 たとえば修学旅行先のお土産屋さんで、不思議な性能のキャッチコピーがついたお薬を見たことがないだろうか。
 『勉強が出来るようになる』『恋に効く』『背が伸びる』、そんな誘い文句に遊び心を刺激されてキャッキャと盛り上がった経験がある。子どもの頭でももちろん冗談だと分かっていたし、中身はただの飴玉ですと裏面にちいさく書いてあったから本気にはしていない。ネタとしては面白いが、わざわざ旅行先まで来てただの飴玉を買うのはもったいなくて、見て楽しむだけの商品だった。
 だからむしょうに感動してしまった。万屋にもこんな昔懐かしいものが置いてあるんだと。学生時代の思い出が蘇り、甘酸っぱい青春の記憶に浸る。初めて見る刀剣たちはどんな反応をするだろう。わざと目に付きやすいよう盆の真上に置いておいたのはささやかな悪戯心だ。狙い通り私の作戦に引っかかった膝丸は、見慣れぬ袋を取り上げて眉をひそめる。


「秘密のドキドキキャンディ…恋に夢中にならないようご注意! 効能には個人差があります…飲んでからのことは自己責任で…。なんだこの不審な説明書きは……。惚れ薬の類か? どうしてこんなものを主が持っているんだ」


 裏面の文字を音読してますます険しい顔をする。生真面目な膝丸にはこの手の冗談は通じないのかもしれない。もう少し愉快な反応を期待していたから残念だ。しかし要らぬ誤解をさせるわけにはいかないので早くもネタばらしとする。

「それ、実際はただの飴なんだ。そういうジョークグッズが売ってるんだよ」
「何? そうなのか」
「私も昨日一粒食べてみたけど、なんにも起こらなかったよ」

 そう、何の変哲も無い、美味しい苺ミルク味のキャンディだった。体が熱くなったり一緒にいた相手のことを好きになったりもしない。当然だ。食べたらドキドキ! とか触られただけでビクビク!とか、そんな薬があるとしたら劇薬に決まっている。万屋とかお土産屋さんで扱っていい代物ではない。
 ……というのは建前で。万に一つ、不思議な効果が現れないかなと子どもじみた期待をしていたのが本音だ。ほら、プラセボ効果とかっていうし。自分には効かなかったけど他の刀剣ならどうかなって。あーでも、膝丸にはネタばらししちゃったからダメかな。騙したまま食べさせたら別の反応が見れたかもしれない。

「けっこう美味しい飴だったから、膝丸も食べてみたら?」
「本当に惚れ薬ではないのだな?」
「違うってば。信用できない?」
「いや、意中の相手でもいるのかと思ったのだ」

 膝丸はしげしげと袋の太字を眺めている。冷静に考えれば、どピンクの文字で『ドキドキムラムラさせたい相手に♡』とは色気も奥ゆかしさもなく、直球もいいところだ。膝丸が邪推するのも無理はない。今さらになってこんな下品な煽り文を彼の目に入れてしまったことに恥ずかしさが込み上げてくる。

「他の刀剣でこれを食べた者はいるのか?」
「いないよ。私がひとつ食べただけ」
「ふむ…ならば試してみよう」

 平安生まれの刀は実は好奇心が強い。日々驚きを求めている鶴丸は言うまでもなく、三条の刀たちや彼の兄である髭切まで。長い時を経ているぶん博識であることは言うまでもないが、古老であるはずの彼らは、まだ知らぬ最新の文明に触れた時には生き生きと子どものような顔をするのだ。元々甘味が好きではないという膝丸も、今回ばかりは興味津々で飴玉を取り出す。

「なるほど。少々毒々しいが、見た目は平凡な飴だな」

 透き通った濃いピンク色に細かなラメが浮かんだそれを膝丸が手のひらに乗せる。中心だけもったりと乳白色なのはミルクのクリームが入っているからだ。怪しい効能を謳うキャンディにしては味のバランスが絶妙で、これ単体で売り出したほうがいいのではないかと思うくらい。私ももう一つ食べちゃおうかな、と思案していると膝丸が手のひらの飴を口に放り込む。カチリと歯に当たる音が聞こえた。

「……どう?」
「む……これは…」

 もごもごと口を動かす彼の反応を見守る。数秒舌の上で転がしたあとに膝丸は目を見開いた。

「なかなかに美味い飴だな…」
「……でしょ?!」

 やっぱり、なにも起こらない。一瞬の落胆。それを打ち消すように安堵がこみ上げる。そうだ、こんな子供騙しのお菓子なんかで膝丸の心がどうにかなったら困る。ドキドキムラムラなんてされたらどう責任取っていいか分からないから、これで良かったのだ。あと、飴玉の味を気に入ってくれたことは素直に嬉しい。くどくない甘さは彼の口にも合ったようで、感心しながらコロコロと熱心に転がしていた。

「こんな飴は初めて食べたな。どこで手に入れたのだ?」
「昨日、乱がお土産に買ってきてくれたんだよ」
「万屋に売っているのか。知らなかったな」
「あ、えっとね、茶屋街のほうの、いつもとは違う万屋に行ったんだって。面白そうだから今度私も行ってみたいんだ」
「そうなのか。ならば俺も同伴したい。兄者に土産を買って帰れば喜ぶだろう」

 つくづく髭切のことが大好きなんだなあ。なんせ出陣先で拾った資材さえ兄への手土産にしようとする熱烈ぶりだ。兄に向ける思いの少しでもこちらに向けてくれたらいいのに、とは口が裂けても言えない台詞だった。
 告げるつもりはない。誰にも教えるつもりはない。でも、単なる錯覚だとは打ち消せない想いの強さで、私はどうやら膝丸のことを好いているらしかった。
 だってこんなに格好良くて自信に満ちた立ち振る舞いをするくせに、唐突に弟属性を発揮して放って置けない可愛らしさを見せつけてくるんだから、ギャップで心を撃ち抜かれるに決まっている。とはいえ今以上の関係を求めるのは身勝手だと分かっていた。そもそも膝丸は私のことを主として尊重してくれているだけだ。過ぎた望みは抱かないから、心の奥底で想うぶんには許してほしい。そう己に言い聞かせつつ、近侍を任せる頻度が高いことも、不思議な飴の効果でちょっとでも私のことを意識してくれたらなんて淡い幻想を夢見ていたのも事実だった。

 でも、夢は夢。飴はただの飴。膝丸は顔色ひとつ変えずにバキバキとちいさくなったそれを噛み砕き、最後のひとかけらを飲み込んだ。

「うむ。なにも起こらなかったな」
「ね、言った通りでしょ? あーあ、でもちょっと残念。面白い効果があればよかったのに」
「……ここに書いてあるような効果がか? 本気で言っているのか? 正真正銘の薬物だったらどうするつもりだったんだ」
「どうって、うーん……膝丸だったらなんとかなるかなって! ほら、真面目だししっかりしてるし、理性を失うなんてことはないでしょ? ま、ただの冗談だから気にしないで」

 痛いところを突っ込まれ、内心を悟られないようにわざと軽い口調で笑い飛ばす。浅ましい期待を見抜かれてはいけない。しかし私のふざけた発言が気に障ったのか、膝丸は不服そうに顔を歪めた。

「主。君は少々軽率な部分がある。後先を考えない振る舞いは控えたほうがいい。相手が俺だから良かったものの、これが他の刀剣だったら誤解を招いていたかもしれないぞ」

 膝丸は内服薬の包装を一振りし、安直な商品名を再度はっきりと見せつける。悪ふざけが度を越して呆れられてしまったのなら本末転倒だった。これで膝丸の気を引けるかなとはしゃいでいた過去の自分を考えの無さを痛感し、顔が熱くなっていく。

「うん…。変な真似をしてごめんね」
「分かってくれたならいいのだ。だが、この飴は他の刀には食べさせないほうがいい。主に惚れ薬をもらったと勘違いして浮き足立つ刀がいては困るからな」
「あは、そんなことはないと思うけど…分かったよ。残りは私が自分で食べるね」

 肩を落としながら謝ると、膝丸は険しい顔をようやく緩めてうなずいてくれた。誇り高い源氏の太刀をからかおうとした私が馬鹿だったのだ。いくら美味しい飴でも当分は残りを片付ける気になれないだろう。プレゼントしてくれた乱には悪いけど、苦い記憶が消えるまでは見えないところにしまっておこうと思った。





 本日の執務を終え、夕餉も済ませた時刻。ふと明日のスケジュールを確認して演練があることを思い出す。練度の低い刀たちは遠征に出してしまったから誰を模擬演習に組みこもうか。近侍は引き続き膝丸に任せるつもりだったが、予定を変更して第二部隊の面子と入れ替わってもらおうかな。うん、それがいい。一方的に気まずい思いをしたあとだから、一日中膝丸と対面して執務に向かうのも気が重いし。そうと決まれば夜更けになる前に一言声をかけてこよう。よいしょと腰を上げて部屋の襖を開けた瞬間、目の前に立っていた姿に度肝を抜かれた。

「…………」
「………あ、膝丸…?」

 あまりの驚きにたっぷり数秒固まったが、なんとか気を持ち直し、おそるおそる声をかける。良かった、見知った影で。これが敵襲だったらどうしようかと一瞬の間に思考をフル回転させたところだ。扉を開けたらそこにいたなんてタイミングが悪すぎるが、少なくとも目当ての人物が自ら現れてくれたわけだ。探す手間が省けたといえばそれまで。だが。

「……えっと、こんな時間にどうしたの?」

 彼もなにか用があって私の部屋に訪れたのだろう。遊びにきちゃいましたと転がり込んでくる短刀とはわけが違う。昼間ならまだしも、真面目な膝丸が暗くなってから審神者の自室にやってくるなんてかつてない出来事で、大変な知らせがあるのかと身構えてしまう。
 彼の顔を見上げて、なかなか返答が来ないことを不審に思い、ようやく違和感に気づいた。じいっとこちらを見つめる瞳はいつもの穏やかな蜜色とは違う。めらめらと不気味に燃える炎の色だった。

「主」
「は、はい?」

 そっと肩を押されて部屋の中に一歩、戻される。どうした、様子がおかしい。なにか怒らせてしまっただろうか。それとも昼間の一件に実はものすごく腹を立てていたとか? 戦々恐々と後ずさる私に続いて膝丸が敷居をまたぐやいなや、
 すぱん。
 後ろ手に襖を閉める音がやけに大きく不穏に響いた。嫌な気配にぞくぞくと服の下で肌が粟立ちはじめる。
 膝丸の片目が獲物をとらえる間際の獣のようにねっとりと光り、そして唇がちいさく動く。

「俺を、謀ったな」

 低い声。しんと静まり返った部屋の空気を震わせる囁きに、え、と耳を疑った。
 おかしい。これは本当に私のよく知る膝丸か? 見知った刀剣の姿を模した何者かではないか。逃げたほうがいいのでは。しかし危機感を覚えた頃にはすでに二の腕をがっちりと掴まれて身動きが取れなくなっていた。

「よくも騙してくれたな。俺を揶揄うのはさぞかし楽しかったろう? これが君の狙いだったというわけか」
「え、な、なに言って」
「とぼけても無駄だ。まさか遅効性の薬だったとはな。気づきもせずまんまと一杯食わされたというわけだ。さて、どう責任を取ってもらおうか」

 ぺろりと舌舐めずりをした唇がつややかに濡れ、尖った牙がわずかにのぞく。うそ、なんで。あの飴玉はただのお菓子に過ぎないはずだった。遅効性? そんなの知らない、少なくとも私には効果がなかった。パニックになる頭とは反対に体は硬直しきってぴくりとも動けない。肉食獣を前にした小動物はこんな心地なんだろう。もしくは蛇に見込まれた蛙が自分の運命を悟ったときの心境。

 食われる。
 怖い。

 ーーふるりと震えが走る。しかし、恐怖の中に甘い期待が混ざっているのは疑いようがなかった。体の奥まで見据えられそうな強い視線。じっとりと熱を孕んだ瞳から目が離せず、ドキドキと胸の鼓動が痛いほどに速さを増していく。鳥肌の立つ体は寒気のせいではなく、劣情を伴う興奮によるものだった。
 膝丸があんな目をして私を見ている。その事実に頭が沸騰しそうなほどに、熱い。

「俺がこうなったのは主のせいだ。鎮めてくれ」

 膝丸の腕が背中に回り、ゆっくりと、力強く抱き寄せられる。びくりと怯えた肩の震えすら封じるように長い腕で拘束され、隙間もないほどに密着させられた顔が彼の胸に埋まる。湿った体温とほのかな匂いにまた心臓が大きく鳴った。

 どくっ どくっ どくっ どくっ

 ……いや、これは。目をみはる。ぴったりと膝丸の胸に押し付けられた耳が、自分のものではない心音を拾う。せわしなく、血液が足りないんじゃないかと思うくらい早鐘を打っているのは彼の心臓だった。

「聞こえるか。君を前にしたときからこの鼓動がうるさくてたまらないのだ」
「あ……う、なんで…」
「俺の身と心が、主を求めているのだろうな」

 頰のすぐ横に彼の息を感じて頭がクラクラしそうなのに、膝丸はさらにぎゅうと厚い胸を押し付けてきて。恥ずかしくって顔を背ければ大きな手が顎を掴んで連れ戻す。どうしてこんなことに。嘘から出た真か、身から出た錆か。怖くて逃げ出したいはずなのに、膝丸の熱い瞳から目をそらせない。

「主のことが好きだ」
「〜〜っっ……! うそだ、ちがうよ、膝丸、それは勘違いだよ」
「勘違いだと? 俺の胸の音が伝わっているだろう? 鼓動が嘘を吐けるとでも思うか。好きな相手をこの腕に抱き締めているから昂ぶるのだ」
「ちがう、ちがう、それは薬のせいで私を好きだと思い込んでるだけだってば…!」

 食べるとドキドキムラムラする…という効能が真実なら、膝丸は不思議な薬の作用に当てられて私のことを好きだと錯覚しているにすぎない。そりゃ多少意識してくれたら嬉しいななんて期待を抱いていたけど、いきなり発情して襲いかかられるとは想定外だった。嬉しい、嬉しいけど、こんな形で好きな人と一線を超えてしまうなんてあってはならない。
 必死に膝丸の胸を押し返そうと暴れるが当然びくともしない。無駄な抵抗を続ける私に、彼はさも焦れったさそうに顔をしかめて言い放った。

「君だって、俺のことが好きだろう」
「え……」

 思わず動きを止めた一瞬に両手を封じられてさらに距離を縮められる。

「俺の気を引きたかったからあの飴を食べさせたのではないか。惚れ薬だか媚薬だか分からないが、毒を食らわば皿までだ。君のことも喰らい尽くしてやろう」
「や、ちょっと待って! ほんとに知らなかったんだってば! ただのお菓子のつもりだったんだもん…まさか効果があるなんて…!」
「ならば効果の程をその身で痛感するといい。俺がどれだけ主を欲しているか知らしめてやらねばな」
「ひっ、膝丸、まっ…」

 かぷりと、言葉の続きは荒々しい口付けで奪われた。
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