鈴虫か、それに似ているようで違う美しい虫の音を聞く。本丸の闇はどうしてこんな深いのだろう。
明かり一つない夜を膝丸と手を繋いで歩いていた。ふたりぶんの歩幅に合わせて鶯張りの廊下がきぃきぃと軋む。この歳になって夜闇が恐ろしいなんて言ったら馬鹿にされるかもしれないけど、風も星も飲み込んでしまうようなどろりとした夏の夜、隣に人がいてくれることは心強かった。
右手に触れるあたたかな体温が嬉しくて、ぎゅっと握りしめると、

「……怖いのか?」

ぬるい吐息をふくませた声が横から降ってくる。緋色の灯火みたいな瞳がこちらをのぞきこんでいた。
ふっと笑みをにじませた膝丸が、気づかうように優しく指で手の甲を撫でる。

「俺がいれば大丈夫だ。どんな怪異でも斬ってみせるからな」

吼丸、蜘蛛切、薄緑。数多の逸話を持つ宝刀にとってはあやかしだって幽霊だって目ではないのだ。
さすがの私でもふだんは「おばけが怖い」なんて言って夜中に他人を振り回すような真似はしない。この夜に限って、おそろしいものを見てしまったせいだ。そして膝丸は怯えている人間を蔑ろにできるほど冷たい性格ではなかった。戸惑いつつも手を握って、心配ないと励ましながら付き添ってくれる。寝室まで送ってもらえるなんて前代未聞の出来事だ。

思い出すだけで身震いする。ほら、すぐそこの暗闇から、何者かの手が伸びてきそうな錯覚にとらわれる。あの光景。明かりを消した真っ暗な部屋の中で、青白く浮かび上がる液晶の画面! おどろおどろしい血文字がバッと突然目の前に突きつけられ、


『特別編【本丸であった怖い話】』


あんなものを見たら一人で寝られなくなる。





「暑くて寝苦しい夜にヒヤッとするには、怖い話に限るよ」なんてにっかり青江が言い出したのがいけない。それで最初は「百物語をしよう」と盛り上がっていた。
しかし、考えてもみてほしい。刀の付喪神という、神だか妖怪だか分からないものが何十振りといるこの屋敷でそんなことをしたら、百の怪談を終えた後に異界への扉が開くに決まっている。断固として反対した私はせめてもの代案として、現世での夏の風物詩、心霊番組を見るのはどうだろうと言ったのだ。

目新しいものが好きな刀たちは飛びついた。特に興味津々だったのは今剣で、さっそく支給金でDVDを借りにいくと言ってきかないから、岩融をお供に街に向かった。レンタルするDVDは好きなのを選んでね、と任せた結果、とんでもないものを借りてきたのである。
その後、強引に真っ暗な部屋に連れ込まれ、両脇には源氏兄弟、膝の上には今剣、背後から岩融にのぞきこまれた軟禁状態で、ある本丸を壊滅に追いやった怪奇現象の一部始終を見るハメになったのだ。


「……あるじさま。だいじょうぶですか?」

パチンと蛍光灯の明かりをつけた今剣が、番組が終わっても微動だにしない私へ心配そうに声をかける。有り難いのだけれどその気遣いはもう少し早く発揮してほしかった。

「ありゃ、主には刺激が強すぎたかな」

髭切に笑顔を向けられ、よしよしとまるで幼子をあやすように頭を撫でられるが、その扱いに不満を覚える余裕もなかった。

「おばけが怖いなんて、可愛いところもあるんだねえ。いいこいいこ」
「……兄者、あまり主をからかわないでくれ」
「おや、ごめんよ。だったらおまえが慰めておやり?」

腹に一物ある微笑みを浮かべた髭切と、複雑そうな様子の膝丸が私を挟んでいる。恐怖のあまり現状に疑問を抱くどころではなかったが、ようやくなにかおかしいなと思い始めた。

「よるもおそいですし、キリもいいので、おひらきにしますか」
「そうだな! いやはや、今夜は良いものを見せてもらったぞ!」

え、待って。さっと立ち上がり部屋を出て行こうとするニ振りの背中を思わず呼び止めた。

「ね、ねえ、途中まで一緒に行かない…?」

どこかの本丸で発生したという怪奇現象の数々を目の当たりした直後では、一人で夜の屋敷を歩いて自室まで向かう勇気がなかった。本丸という異空間ではなにが起こってもおかしくないのだ、平穏無事に過ごしている我が本丸でも得体の知れないものが巣食っているかもしれない。
しかし、この部屋は源氏兄弟の寝室だ。今剣と岩融の部屋はお隣さんだから、途中まで行こうといってもすぐ廊下でお別れすることになるんだけど。それでも追い縋ってしまうほど不安で仕方なかった。

「あるじさま、こわいんですか?」

くるんと利発そうな目を光らせた今剣が、岩融と顔を見合わせる。あれ、二振りとも、さっきの髭切と似た良くない笑みを浮かべているのは気のせいか……。

「だったら膝丸が、あるじさまのおへやまでおくってあげたらいいとおもいます!」

突然指名された膝丸はびっくりしていたが間髪入れずに髭切が手を打った。

「ああ、それはいいね! ほら弟、責任持って主を送ってあげるんだよ」
「? 待ってくれ、兄者…」
「そうだ、帰ってこなくてもいいからね」
「な、なにを言っているのだ…」

おまえの布団ないよ。くるくると敷布団を片付けはじめた髭切にあにじゃあと哀切に鳴くが、すでに今剣と岩融が彼の手を掴んで廊下に引きずり出していた。

「あるじさま! 膝丸はあやかしをきったかたなですから、つれていけばあんしんですよ!」

今剣が屈託無い笑顔で膝丸の腕をこちらに押し付けてくる。なるほど、察しの悪い私でも成り行きを理解した。
膝丸が好きなのにどうしたらいいか分からない。浮ついた悩みを彼らに聞いてもらった回数は、もう両手で数え切れないほどだった。うだうだと悩むばかりで自分から思い切った行動のできない私と、いっこうに距離を縮めようとしない膝丸に業を煮やした彼らは、強引に背を押す策を練ったのだろう。まさかそれが、夜更けまで怖い話をして私を怖がらせるだなんて、素っ頓狂な作戦だけど。
とはいえ彼らに感謝はしている。あたふたしている膝丸の腕にそっと触れて、恥ずかしいのをこらえながら「膝丸、駄目かな?」と頼んでみせると彼は赤くなった。「主のためならば仕方ない」とうつむきがちにつぶやく声が愛おしくて、どん底の気分が少しだけ華やいでしまう。

「おやすみなさーい!」

にやにやと手を振る三振りに見送られて渡り廊下を歩く。嵌められたのだと気づいた膝丸はムッと唇を噛んでいたけれど、すぐに私の手を握り直してくれた。

「行こう」

穏やかな声音は耳に心地よいのに、暗い廊下にふたりっきりの状況ではなぜかいけない気持ちになってしまう。夜目の利かない太刀だから、頰が赤いのはバレないと思うけど。こくんとうなずいて、それから黙って歩を進めた。


リリリリーーと鳴くのはなんの虫だろう。
真夏の夜の熱気が体を包む。繋いだ手のひらはほんのりと汗ばんでいて、ドキドキと胸が高鳴った。作り物みたいに綺麗な膝丸でも汗をかいたりするんだなあと、当たり前の人間らしさを不思議に思う。私はまだ膝丸を雲の上の人のように感じていた。

初めて出会ったときから彼の印象は変わらない。
気高く静謐な品位をまとって佇む姿にまず目を奪われた。口を開けば兄者兄者……というのは一面で、実際は仲間を思いやる心にあふれている。戦い方も模範的なのだろうと想像して出陣させれば、人外めいた牙を剥き出し、獰猛な獣のように敵を殺しまくって血まみれで帰ってきた。このギャップにやられない人がいるなら教えてほしい。
しかし、堅物かと思えばふいに微笑む目は優しく、頼りのない主をそれとなく気遣う言動の端々に惹かれないわけがなかった。釣り合うはずがないと己に言い聞かせても無意識のうちに追いかける目線、言葉を交わすたびに上ずる声音からにじみ出す熱は抑えきれなかった。

「きみ、弟のことが好きなんだねえ」

呆気なく露呈した恋心を、髭切は浅はかな恋情だと笑うどころか、あたたかく応援すると言ってくれた。いつしか今剣と岩融まで巻き込んで大がかりな作戦を立てはじめたのは誤算というところ。しかし彼らの助力が功を成し、少しずつ膝丸との仲を深められていると思う。だって、こうして手を握ってくれるなんて、当初からは考えられない進歩だ。


襖障子の前で足が止まる。二人で手を繋いで歩けば寝室までの道のりはあっという間だった。もちろん私が恐れていた怪異が現れることもない。

「膝丸、ありがとう」
「ああ」

振り向いて笑ったとたん、彼の手がするりと逃げていってしまった。膝丸はなぜかほっとした顔をしている。
……呆気なく突き放されてしまった。浮かれていた気持ちは一瞬で凍りつき、ズキンと胸が痛む。もしかして、本当は手なんか繋ぎたくなくて無理をしていたのだろうか。膝丸はいつも優しいけれどその親切は表面だけだ。付き合いの長くなった今でも内心どう思っているのかは分からなくて、それが私をどうしようもなく不安にさせる。
他人の熱を失った手のひらは夜風に冷えるばかりで、寂しくてたまらない。このままお別れするのは我慢できなかった。挫けそうな心を奮い立たせて膝丸を見上げる。

「あのね……、怖い話を見たから、目が冴えちゃって。すこしだけ、部屋でお話とか、してくれたらなって……」
「…………」

仏像のように黙りこくってしまった膝丸に、あ、これはヤバいと思った。女性みずから閨に誘うような発言は、高潔な彼には下品に聞こえたのだろう。考えてみれば恋人同士ですらないのに寝室に連れ込むのなんて大胆すぎる。

「ええと、一人になるのは不安っていうか……もう少し膝丸とお話ししたらよく眠れるかも、って意味でね……?」
「…………怖いのか?」

失言したなと冷や汗をかきながら必死に言葉を並べたところ、彼は重々しく口を開いた。

「う、うん…! 膝丸がいてくれたら心強い」
「そうか……だが、そういうわけにはいかない」

ゆっくりとかぶりを振ると、佩緒を解いて、腰に下げていた太刀を手渡してきた。

「これを枕元に置いておくといい。魔除けになるだろう」

彼の本体を受け取ってぽかんとする。重厚感のある黒塗りの鞘は見た目以上にずしりと重みがあった。
呆然と太刀を捧げ持つ私にふわりと笑みを向け、

「おやすみ」

颯爽と踵を返し、歩いて行ってしまう膝丸。
……空気を読めないのか、読んだ結果がこれなのか。


一人で布団に横になった私は枕元に膝丸の太刀を寝かせる。色々と突っ込みどころはあるが、刀剣男士にとっては魂ともいうべき本体の刀を預けてくれるのは信頼の証なのだろうな。と己に言い聞かせて、その漆黒の鞘を撫でる。つるつると手触りのいい表面は無機物のつめたさだけど、これが膝丸の本体なのだと思えば心はあたたかくなった。

「はぁ……」

好きな人に心を許してもらえている。それは確かに嬉しいことではあるけれど、その先をねだりたい自分は強欲なのだろうか。膝丸の本体を撫でさすりながら彼の現し身を思い描く。

「膝丸かっこいい……好き…」

繋いだ手の熱さがまだこの手に焼き付いている。膝丸と接近するだけでドキドキ胸は高鳴り平静ではいられなくなる自分が恥ずかしいけれど、あんなかっこいい人が近くにいたら仕方ない。隣でDVDを見ているときはなんとなくいい香りがしてたまらなかった。抱きしめられでもした日には、硬い胸とあの爽やかな香りに包まれて頭がショートしてしまうだろう……。
とはいえ先ほど寝室に誘ったのには全くいかがわしい意図はない。単純にもっと膝丸のそばにいたい、時間を共有したいと思ったからだ。いきなりそんな、色々なステップをすっ飛ばして行為に至るようなことは、私には到底できそうにない。

……いや、現実ではできなくも、空想の中では。口に出すのも憚られるが、想い人を脳裏に描いて良くない妄想にふけったことは幾度もある。いつまで経っても望む手が差し伸べられず、持て余した恋情を落ち着けるにはその先を己で補完して慰めるしかなかった。

「はぅ……膝丸……」

あのたくましい腕に組み敷かれて荒っぽく胸を腹を蹂躙され、どろどろに蕩けたそこに硬い楔をねじこまれて滅茶苦茶に揺さぶられたら……いつも冷静な膝丸が余裕なさげに腰を遣うさまはどんなにえっちだろう…

「はあ……」

ぽやんぽやんと空想に浸るうちに一人で興奮して盛り上がってしまって、思わず太刀をぎゅうと抱きしめた。ひんやりした感触が火照った体に心地よい。抱き枕みたいに両手両足でかかえこんで布団の中で転げ回った。

「膝丸に抱かれたいなあ…」

現実的でない願望だからこそ口にするのはタダなのだ。普段なら我慢せず自分で発散するところだが、今夜は当の膝丸の本体を借りている状態である。宝刀を目の前にして自慰をおっぱじめる気にはさすがになれず、熱持つ頰に鞘を押し付けながら悶々として眠りに就いたのだった。



翌朝、安眠をもたらしてくれた太刀を大事に抱えながら広間へ向かうと、並んで朝食の準備をしている源氏兄弟を見つけた。

「おはよう、髭切、膝丸!」
「おはよう主。昨日はよく眠れたかい?」
「うん。膝丸のおかげでね!」

感謝の気持ちをこめて明るく呼びかけるが、ひどく緩慢に振り向いた膝丸を見てびっくりした。色の白いほうではある顔色がさらに蒼白で、目の下の薄い肌には隈が浮かび、いかにも寝不足ですと主張している。昨晩お別れしたあと眠れなかったのだろうか。

「膝丸、大丈夫? 具合悪いの?」
「いや、問題ない」
「…もしかして、私が本体を借りちゃったせい?」
「! そんなことはないぞ…!」

差し出した太刀を奪うように取り戻し、膝丸はようやく一安心したように息を吐いた。本体と長い時間離れると体に差し障りがあるのかと思ったのだが、実際のところどうなのだろう。佩刀してくると言ってその場を抜けた膝丸の背中を見送ると、髭切は苦笑を漏らした。

「やれやれ。素直じゃない子だねえ」
「?」
「あれほどお膳立てしてあげたのに、ご丁寧に君に刀だけ渡して、しょぼくれながら帰ってくるのだもの」
「うん?」

やはり刀を手離すと元気がなくなってしまうのだろうか。それならそうと言ってくれたらいいのに。太刀を抱えてはしゃぎまわった昨夜の自分が情けなく、申し訳ない気持ちが膨らんでいく。悪いことをしたなあと反省していると、髭切はにっと人の悪い笑みを浮かべた。

「昨夜の弟は大変だったよ。主はどんなことをしていたのかな」
「昨日? なんのこと…?」
「あの子、一晩中布団に潜って唸っていたし、かと思えば厠に行って帰ってこなくなったし」
「ええっ!」

そんなに具合が悪かったのか…! お腹でも痛かったのかな。苦しそうな素振りを少しも見せなかったとはいえ、近くにいたのに不調に気づけなかった己は審神者失格だ。どんよりと落ち込んでいると髭切は宥めるように背を叩いてくれた。

「気にすることはないよ。さ、朝ごはんにしようか」

膝丸が来るのを待っていたがなかなか彼は訪れず、結局肩を落としてごはんを食べ始めた私に、髭切はゼリーに乗っていたさくらんぼをプレゼントしてくれた。





その日から膝丸の様子がおかしい。今までも特別親密に付き合っていたわけではないが、明らかに態度が素っ気なくなった。話しかければ穏やかに応えてくれたはずの彼は、いまや目が合ったかと思えばすぐにふいと逸らしてしまう。追いすがって懸命に声をかけても「ああ」とか「そうか」とか適当な相槌しか打ってくれないし、向こうからは事務的な会話しかしてくれない。

「……膝丸、私なにかしちゃった?」
「いや……」

とうとう耐えられなくなってどうにか出陣帰りの彼を捕まえ、不安で張り裂けそうな胸を押さえながら質問したが、それに対する答えも要領を得ないものだった。勇気を出して話しかけたのに目も合わせてくれず、気まずそうに明後日の方向を向いている。せめてこっちを見てほしいのに。

「……やっぱり、太刀を借りたこと怒ってる?」
「……」

なにか言いたそうに口を開いたが、すぐに諦めて閉じてしまう。どうして本心を見せてくれないんだろうと悲しくなる一方、膝丸は顔を背け、廊下の向こうへ去ろうとする。

「手入れ部屋に行く」
「あ、それなら私が手入れするよ…?」
「いや。主の手を煩わせるまでもない。軽傷程度ならばあの妖精たちに任せておけ」
「でっでも…ほら最近ゆっくり話ができていないし、膝丸が嫌じゃないなら一緒に…」

ぐるんと振り向いた膝丸は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。続けようとした声が詰まってしまう。なにが怒りの琴線に触れたのか見当がつかなくて混乱する。

「……君はなにも分かっていないな」

低い声がゆっくりと床を這うように響く。言葉の真意は図りかねたが、怒りの中にどこかもどかしげな色を孕んだ声だと思った。

「……ごめん。なにか悪いこと言っちゃった……?」
「……いや、すまない。先の出陣で気が立っているのだ。少し一人にしてくれ」

ゆるゆると首を振って背を向ける膝丸にこの話は終わりだと幕を降ろされる。遠ざかる後ろ姿に「私のこと嫌いになった?」とは怖くて聞けなかった。

とぼとぼと執務室へ向かう足取りは重く、頭の中では己を責める声が反響していた。
なにも分かっていないーー。
私は無意識のうちに刀と主という力関係に甘んじていたのかもしれない。刀剣男士は基本的に審神者に友好的で、命令を拒めないようにシステムされているのだ。仮にも主従という形式を取る以上、忠誠を誓う対象である審神者に好意を向けられたら、表立って断れないに決まっている。膝丸は本心では恋にうつつを抜かした私に失望しているのかもしれない。上部だけの優しさに舞い上がって、迷惑している彼の気持ちに気づけなかったのだとしたら。私はなんて馬鹿なのだろうと思うと悲しくて涙が出てきた。

「ありゃ。どうしたんだい」

下を向いて歩いていると前方への注意が疎かになっていた。ぽふん。突き当たりを曲がったところで誰かの胸にぶつかってしまう。

「主にそんな顔をさせたのは弟かな?」

優しい手と声がうつむいた顔を上げさせる。さっき別れたばかりの彼と同じ顔、でも全く表情の違う柔らかな笑顔が見つめている。

「髭切…」
「帰ってきて早々、君の悲しそうな顔を見たら、僕もなんだか悲しくなってしまうなあ」

膝丸と一緒に出陣してきたはずの彼は無傷で疲労もなく、これから自室で一休みするところだったようだ。よしよしと頭を撫でてくれる手があたたかくて嬉しいけれど、これが膝丸の手だったらなあと望んでしまう恋心が浅ましい。

「主を泣かせる悪い子には、お仕置きが必要かなあ」
「……ううん、私が悪いの」

物騒に声を低くした髭切に首を振って否定した。のほほんとしているようで腹が据わっている髭切は、放っておくと何をしでかすか分からない。

「主が悪いのかい? 一体なにをしたの?」
「私は自分勝手だったの。お構いなしに好意をぶつけてばかりで、きっと愛想を尽かされちゃったんだ」
「へえ。愛想を尽かしたかあ…。僕にはそんなふうに見えないけど?」
「でも……膝丸怒ってたよ。なにも分かっていないって言われちゃった。それもそうだよね、好きでもない相手に向けられる好意なんて迷惑なだけだよね…」

ここ数日不安でたまらなかった思いを吐露したとたん止まらなくなってしまった。白い外套の裾を掴んでぐっと涙を堪えていると髭切はうーんと唸り、困った様子で私の肩を抱く。

「弟は君のことを嫌いになんかなっていないと思うけど…。うん、とりあえず、気分転換しに行こうか? 街に出かけて買い物でもしようよ。溜まってきたお小遣いを使いたいんだよねえ。そうだ、非番で暇してる今剣と岩融も誘おうよ」

突拍子もない提案に思わず思考が止まってしまう。良くも悪くも傍若無人というか、発想が自由な髭切には驚かされてばかりだが、私を気遣っての発言だと思えばありがたかった。
顔を上げた私に「ほら。お出かけの支度をしよう?」と笑いかけてまぶたを拭ってくれる。年の離れたお兄さんがいたらこんなかんじなのだろうか。髭切には助けられてばかりだなと思いながら微笑みを返してうなずいた。
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。