顔色が優れないですよ、と声をかけられて目の前にティーカップが置かれる。ミルクのたっぷり入った亜麻色の液体が湯気を立て、その水面に怪訝そうな自分の顔が映った。
 無言で顔を背けると、物吉は駄々っ子をなだめるように眉を下げて苦笑し、向かいの席に座ってティーカップを引き寄せる。かつてこの部屋で彼と紅茶を飲んだ日のことを思い出して、しかしあの時はスコールの最中だったかと晴天の庭を眺めた。

「裏切られたと思っていますか?」

 穏やかな言葉にちくりと刺すような棘を感じた。いつもと変わりのない温厚な微笑みが今では憎たらしく見える。

「何の用だ」
「心配しているんですよ」

 物吉は両手でティーカップを持ってひとくち啜る。うだるような暑さの中、香辛料と共に煮込んだ紅茶は多くの刀剣たちの好物だった。

「膝丸さんは、僕には特別心を許しているようだったので。僕があなたの大好きな主さまと寝ていると知って、ショックを受けたでしょう?」

 わざと不快にさせているとしか思えない台詞に露骨に顔をしかめた。確かに自分はこの脇差のことが好きだったが、いまや何重もの意味で失望している。

「失せろ」
「そう怒らないでください。膝丸さんがいつまでも片意地を張って主さまと距離を縮めようとしないから、僕たちだって冷や冷やしてるんですよ。主さまに一言、好きだと伝えるだけで、すべてが上手くいくんですよ」
「俺はあの淫売を好きだと思ったことはない」

 なにが可笑しいのか物吉はあははと声をあげて笑いはじめた。汗ばんだ細い首筋に、桃色がかった乳白色の髪が張り付いている。優しいくせに冷たさを内包した笑顔は主そっくりで、思いがけずぎょっとした。

「僕たちはみな、主さまの性質を血脈のように受け継いでいるんですよ。あなたが嫌う淫売の血も、僕らの中に脈々と流れているんです」

 そんな馬鹿なと思ったが、急に己の胸の中でどくどくと拍動する心臓の鼓動を意識してしまう。同じ血が巡っているのだろうか。自分も、物吉も、主も。ならば我らの相違点とはなんなのだろう。とろけるように笑う物吉の表情は主に酷似している。彼が纏う香は甘ったるいバニラの香りで、それだけが彼と主を、彼と他の刀剣とをはっきりと区別していた。

「僕たちは主さまを愛するようにできているんです。嫌いになれるはずがないんですよ」

 物吉はあの時の今剣と同じように諭すようにつぶやいて、遠いまなざしで常夏の庭を見やる。こんな若造にすべてを見透かしたような態度を取られるのは腹が立った。

「知った風な口を聞くな」

 好きが何遍も裏返って捻じ曲がって原型も留めていない想いが、日々腹の底に溜まっていく。その苦しみがお前に分かるものか。
 物吉は静かに紅茶をひとくち飲み、陶器の縁から口を離すと、濡れた唇を舐めた。

「ごめんなさい。僕は、お二人に幸せになってほしいだけなんです」

 しおらしく微笑んだ物吉はすぐにぱっと明るい表情に切り替えて、自然な仕草で両手を打った。

「ああ、そろそろおやつの時間ですね。今日は脇差のみんなでかき氷を作るつもりなんです。フルーツをたっぷり乗せて、練乳もかけて。出来上がったらひとつ、主さまに届けてきてくれませんか?」

 なぜ俺が? と疑問を抱いたが彼なりの計らいなのだろう。物吉は目をきらきらさせて膝丸を見つめている。上手いこと言いくるめられているようで癪に触るが、これ以上彼の前で意固地になるのも見苦しいので、渋々うなずいた。


 荒く砕いた氷の上に宝石のような色とりどりの果実を盛り付けた皿を受け取って廊下を歩く。手のひらに伝わる氷の冷たさが心地よい。
 そういえば長いこと近侍を務めているのに、執務以外の私用で主のもとを訪れたことはなかった。接点を持たないようにと必死に距離を置いてきたわけだ。その姿を見るだけで心が波立ってしまうのを分かっていたから。

「……主」

 すでに襖障子は開放されている。先日と違うのは、簾代わりの厚い更紗が巻き上げられていることだった。

「入るぞ」

 念のため声をかけるが返答はない。注意して耳を澄ましたが、呼吸や衣摺れの音ひとつ聞こえなかった。留守にしているのだろうか。
 これほどの静けさならまさか情事の最中ということはあるまいと、部屋に一歩踏み入る。遅い歩調に合わせて、ぎっ、ぎっと畳がきしむ。目当ての人はすぐそこに見つかった。茣蓙の上に身を横たえて目を閉じている。死んでいるかのように微動だにしない体に近づくと白い喉はちいさく動いていた。女の体温であたためられた香の匂いが上ってくる。眠っているのだ。
 日陰の中でも暑いものは暑く、はだけた着物の襟や裾からのぞく肌は汗ばんで艶めいていた。目を逸らせない膝丸の手の上でじわじわと氷が溶けていく。
 ああ、いけない。ふらふらと花に誘われる虫のように身を寄せる。かき氷の皿をローテーブルの上に置いて屈み込み、眠る主の顔を近くで見つめた。無造作に床に散らばった髪、規則正しい寝息。まぶたにかかっていた一束の髪をおそるおそる指で払い、それからふっくらと曲線を描く頰に指を這わせた。
 薄く開いた唇に吸い寄せられるように近づく。暑さのせいか緊張のせいかぽたりと汗が滴って主の上に落ちた。
 吐息まで感じられるほどの距離に唇を寄せて、あと少しで触れ合うというところでーーできなかった。
 怖気付いて顔を離す膝丸の目の前で、いきなり、主の目がぱちりと開いた。

「してくれないの?」

 びくりと小動物のように跳ねた膝丸を見て女は笑っている。

「意気地なしね」

 くすくすと息を漏らす姿に一瞬で頭に血が上った。両手で手首を掴んで床に押し付け、着物のはだけた体に馬乗りになると女は目を丸くして膝丸を見上げる。いい気味だと思った。
 息を荒げながら腹の上にのしかかる男の重みで主は身動きひとつ取れないようだった。ぎゅうと握り締める手に力を込めれば女の腕がぐにゃりと歪む。骨が入っているのか疑わしいほどに柔らかい。
 膨らんだ下腹部を押し付けたまま動けず、主が怪訝な顔をしはじめたところで視界が涙ぐんできた。
 無理だ。強姦するほどの悪意など向けられるはずがない。泣き声のような呻きを漏らし腕を押さえつける力を弱めれば、主の手はするりと抜け出して膝丸の頰を撫でた。

「膝丸はいいこね」

 いいこ、いいこ。あなたはいい刀。慰めるように繰り返す声が無性に悔しくてたまらなかった。

「膝丸のことが一番好きよ」

 やめろ。そうやって期待させるからいけない。「誰にも秘密だけど膝丸のことが一番好き」だなんて、そんなことを言われたら信じてしまいたくなる。

「黙れ。俺のことを好きだと言ったその口で他の男のものを咥えるくせに」
「妬いてるの?」
「嫉妬などするものか。嫌いな女がなにをしていようと勝手だ」
「じゃあその嫌いな女が抱いてほしいって言ったら?」

 主は感情の読めない微笑みを浮かべたまま悪魔なような囁きを聞かせる。急に下腹部に痛みが走り、うっと息を詰めると勃ち上がったままのそこをぐりぐりと曲げた膝で圧迫されていた。

「やめろ…」
「嘘。ここをこんなに硬くしたまま嫌がっても説得力がないのよ」

 したくない。恐ろしい。逃げたくても今度は逆に主が膝丸の手首を握って離してくれない。乱れて広がった着物の裾からむき出しの白い脚が動いて器用に刺激を加えていく。どんどん熱を増していく袴の下に危機感を覚えた。

「や、だ、あるじっ、やめてくれ」
「膝丸に抱いてほしいの」

 体裁を保つ余裕もなくはぁはぁと息を乱しながら、真下で笑う女を見やる。

「……それは、主命か?」
「いいえ。ただのお願いよ」

 命令だと言われれば従うしかないのに、あくまで膝丸の意志に任せるやり口がずるい。その頼みを聞き入れれば自分がこの女を悪しからず想っていると認めることになってしまう。

「駄目だ…」

 もうこれ以上俺を掻き乱さないでくれ。主を抱いてしまったらどうにか水面下に抑え込んでいた独占欲も恋情もあふれ出して取り返しのつかないことになってしまう。

「そう」

 主は残念だというふうにつぶやくと、突然、声音を一転させた。

「退きなさい」

 明白な命令文で発せられた言葉に体が勝手に反応する。半ば強制されるように覆い被さっていた体を起こすと、主は両手で膝丸の胸を押し、さっきまでとは逆の体勢になった。見上げる顔はいつもの何倍も冷たい微笑を湛えていて震え上がる。

「膝丸はいつもここをどんなふうに触っているの?」

 股の間に主の太ももがぐいぐいと押し付けられる。金縛りにあったように動けないでいると腰の後ろに手が回されてベルトを外された。

「嫌だ、離せ」
「駄目よ。答えなさい。どうしてここをいやらしく勃起させてるのか、いつも何を想像して扱いているのか言うのよ。このあいだも私と物吉がしてるのを覗き見して興奮していたんでしょ? 獣みたいに目をぎらぎらさせて、そのくせ見つかったら大慌てで逃げちゃうんだから可愛かったわ」

 力の入らない手で抵抗するが呆気なく袴を引きずり下ろされて汗ばんだ肌が露出する。しなやかな指がするりと下着の中に入ってきて熱の塊に巻きつく、ひんやりとした体温。軽く握られるだけなのに柔らかな女の手に触れられる感覚にいってしまいそうになる。

「ぁっ…あるじっ、たのむ、離してくれ」
「私の言うことが聞けないの?」

 冷たい微笑みすら消して無表情で膝丸を見下ろしてくる姿が恐ろしい。命令に従わない刀は不要だと宣告されたかのようで、思わずすがるように声を絞り出した。

「は…っ…、分かった…言う、言うから…」

 見捨てないでくれ、と目で懇願すれば主はほんの少しだけ目元を緩めた。羞恥に耐えながら乾いてもつれる舌を動かす。

「んっ、うう…いつも……主のことを思って、っ」
「ふふ。私のことを思って?」
「主と…俺が、しているところを、想像して……」

 それ以上は言葉にならず、喘ぎ声とも嗚咽ともつかぬ情けない声を漏らす膝丸に主はやっと笑顔を見せてくれた。

「私を抱くことを想像しながら自慰して射精するのね。可愛いこ」

 主はそう言うと手の中の性器をぎゅっと握りしめ、上下にぐっぐっと扱きはじめた。いきなり与えられた刺激に腰が跳ねて思わず悲鳴を上げそうになる。敏感なところをぐりっと引っ掻いた指がぬるぬるとそこばかりを往復する、痛みと快感で弾けてしまいそうだ。

「先っぽからいっぱいいやらしい汁が出てるよ。女の子みたいにぐちゃぐちゃになってる」

 濡れて光る指が目の前に突きつけられたかと思えば唐突に唇を割り侵入してくる。己の体液の苦い味にびっくりしていると、主は腰を上げて着物の長い裾を開き下半身を露出させた。しなやかな白い脚を惜しげもなく剥き出して、それから、薄い下着に隠された腰をゆらゆらと揺すって

「いつもみたいに想像してみて? いまからあなたのこれが私の中に入る、って…」

 ゆっくり、焦らすようにもどかしいペースで大きく開いた股を落としていく。

「あ、あ……」

 反り返って腹にくっついているそれに熱と重みが加わる。布一枚を隔てて密着する主の秘部はすごく熱くて、柔らかくて、触れているところからとろけてしまいそうだ。主は両手を膝丸の胸につけたあとにっこりと微笑み、前後に腰を振りはじめた。何度も犯すことを夢見ていたそこが己の汚いところに押し付けられている事実、経験したことがないあまりの気持ちよさに射精してしまいそうだった。

「私が下着を履いていなかったらセックスしてるよ。わかる? ここに穴があるの…ほら、今通り過ぎた。ん、ここに当たってるのがクリトリスよ。女が一番気持ちよくなっちゃう粒…あっ、膝丸の硬くて、気持ちいい…」

 ぐりぐりと自慰をするかのように下着越しの花弁を押し付けられる。擦っているうちに女の穴から蜜があふれ出して布が湿り気を帯びはじめる。蕩けた顔をして焦点の定まらない目で膝丸を見下ろす主はなんていやらしいのだろう。剥き出しの性器がぐんと硬度が増してふふっと嘲笑われた。

「かわいそう、ね、こんなガチガチにおっきくして辛そうなのに、中に入れないんだから。でも、あなたがセックスしたくないって言ったんだから、仕方ないよね…」

 主は酷い。酷い女だ。快感はどんどん大きくなるのにもどかしさも比例して膨らんでいって、もっと深く触れ合いたいと願う欲がとどまることを知らない。この布さえなかったら直に擦り上げてもらえるのに。剥ぎ取る勇気なんて無いのでふうふうと息を吐きながらやけになって腰を突き上げた。焼けるように熱い割れ目に硬い肉の棒がぐぐっと食い込んで女は軽く仰け反る。自分の体で主が感じていると思うとたまらなく興奮する。

「んん、うっ、こらぁ」

 ひくりと腿を痙攣させたあと叱りつける、玉のような汗を浮かべて目尻を赤く染めた主にいつもの威厳はない。

「あるじ、ふ、うっ、う……」

 取り憑かれたかのように腰を突き立てる。ゆさゆさと揺れる胸が豊かに波打ち、互いの体液で濡れた布が卑猥な音を立てながら糸を引いて擦れた。

「あっんっ、こうしてると、本当に挿れてるみたいね…、ね、膝丸の、ぐいぐい当たって、私のあそこに我慢汁いっぱい擦り付けてるの、なんていやらしい子なのかしら。そんなに気持ちいい?」
「うっ…あ……」

 腰をくねらせて秘部を押し付ける主がひどく淫靡で、痛いほどに張り詰めているそこにさらに熱が集まる。涙が出るほど気持ちがいい、けれど熱く蜜をこぼす穴の中に挿入して、柔らかな肉に包まれながら思いきり突き上げたらどんなにいいだろう。

「ね、膝丸、気持ちいい? 答えなさい。早く言わないとやめちゃうわよ」
「あっ、嫌だ……はあ、あ、きもちい…主…」
「あはは。下着越しのお股で擦られるだけでいっちゃいそうになるなんて、情けないわね。ずっと私とえっちなことがしたかったんでしょう?」

 返事ができなかった。これ以上懐柔されるわけにはいかないとかろうじて残った理性が訴えている。そんなちっぽけな矜持などお見通しなのだろう、主は涙ぐんだ膝丸の瞳をのぞきこんで言葉を続ける。

「私のことが好きでしょう? 好きだって言って。私は膝丸のことが大好きなんだから、あなたも私のことが大好きにきまってるの。ね? 」

 好きって言って。言いなさい。言え。だんだんと命令の度合いを増していく台詞に恐怖と幸福を感じる。主が俺に狂気じみた執着を示してくれている。その事実に頭がくらくらして俺はやはり特別な一振りなのかと都合のいい期待を抱いた。

「ああ…、主、っ…」

 主が好き。好きで好きで誰の目にもつかぬよう奪って閉じ込めてしまいたいくらい。本丸の刀を全員折れば俺だけを求めてくれるようになるだろうか。刀なんて、一振りでじゅうぶんなのだ。しかしそれを口に出してしまったら、ずっと抑えてきた醜い感情が洪水のように氾濫して止まらなくなってしまう。

「膝丸、好きだと言いなさい」
「…それは、だめだ…、ゆるしてくれ……」
「馬鹿」

 ペチンと音を立てて頰を張られた。ああ、うう、と言葉にすらならない呻き声と共に涙を流す。主はこの柔らかな手で刃物よりも残忍に膝丸を傷つけることができる。

「なら、あなたは好きでもない女に欲情して勃起して、ただ子種を吐き出したいだけの、畜生同然の存在ね」
「ちがう、ちがうんだ…」
「違わないの。」

 ぴしゃりと撥ねつけるように言い放たれた言葉に心の中までずたずたにされる。本当に違うんだ。こんな悪意ある誤解をされるくらいなら素直に好きだと伝えておけばよかった。今までの言動すべてが裏目に出て自分の首を絞める。ボロボロと涙をこぼしていると主は突然声音を和らげて顎を掴んできた。

「可愛い泣き顔。もっと見せて」

 その冷たい目にのぞきこまれた途端に射精した。主の股に潰された性器がびくんびくんとのたうち、生温かい液体が勢いよく胸元まで飛び散る。青臭い匂いが鼻に抜けるのを慄然とした気持ちで知覚する。

「あーあ。出ちゃったね」

 馬鹿にするような声にまた腰が跳ねて、止まらない精液がどぷどぷと腹の上に溜まっていく。主のあの冷たい眼差しで射精中の自分を観察されていると思うと、気持ちいいのと恥ずかしいのとで死んでしまいそうだ。
 全身の水分を失うくらい精液も涙も流し切ったあと、主は脱力した膝丸の体からゆっくり腰を上げる。重なり合っていたそこはぐっちゃりと重く濡れて白濁の糸を引く。主は煩わしそうに下着の紐に指を引っ掛けるとそのまま脱いでしまった。あ、と息をのむ。一瞬だけ見えた茂み。すぐに着物の裾を閉じてしまったのでその奥の秘部は追えなかった。

「膝丸、とっても気持ちよさそうな顔してたわ」

 また羞恥に顔が染まる。主は汚れた下着を投げ捨てると部屋のすみに歩いていき、タオルを持ってきて膝丸の体を拭きはじめた。優しく肌を撫でる手つきに愛しさがこみ上げてくる。あるじ、と呼んでその手を握ろうとした、

「だけど残念ね」

 唐突につぶやく。胸と腹を拭い、萎えた性器まで丁寧に清めてくれたところで彼女の手は離れた。

「膝丸が私のことを好きで抱いてくれるなら、もう他の刀と寝るのはやめようと思っていたのだけれど」

 ぼやけた頭を殴打され、目の前の視界が急に鮮明になる。嘘。信じられないような気持ちで引き攣った目を動かす。
 女は笑っている。濡れた唇を釣り上げていたぶるようにゆっくりと言葉を発した。

「私はこんなにもあなたのことが好きなのに。本当は膝丸とだけ寝たいのに、でも膝丸が私のことを嫌いなら仕方ないわね。ああ、かき氷、片付けておいてね。勿体無いけどもう溶けちゃってるわ」

 血の気の引いていく膝丸を尻目に主は踵を返した。
 震える体を起こして必死に後を追おうとしたが力の抜けた脚は動かない。

「主、待ってくれ、たのむ」

 伸ばした手は虚しく空を切った。
 畳に崩れ落ちる膝丸に振り向きもせず主は笑い声を上げる。

「嘘よ嘘。ぜんぶ嘘」

 さよなら。

 垂らした更紗が揺れている。主が去ったあとの部屋でしばらく呆然としていると静寂の中で血流に似た雑音を聞いた。
 また雨が降っている。
 視線をずらせば、氷のすっかり溶けて練乳とシロップにまみれた皿が虚しい時間の経過を物語っている。その瞬間、また明日からいつもと同じ日常を繰り返すのだと悟って打ちのめされた。あんなことをしたのに関係性は何ら変わらないのだ。きっと明日もあさっても主は膝丸以外の刀剣を閨に呼んでさっきみたいに優しく愛撫するのだろう。それを止める権限は自分にはない。好きだと伝えることも主を独り占めしたいと主張することもできなかった膝丸には現状を変える力がない。

 嗚咽が漏れる顔を腕に埋める。甘い香の匂いが自分から香った。

 なにもいらない。
 男は泣いている。

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