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 襖は開いていた。幾重にも重ねられた豪奢な更紗は巻き上げられ、もぬけの殻となった室内を曝け出している。
 遅かった。予感していたことなのに、腹の底に重りを落とされたかのような心地になる。ふらふらと未練がましく部屋へ踏み入ると、外に逃げてだいぶ薄くなったいつもの香りがかすかに漂う。すん、と鼻を鳴らして残り香を吸い込んだ。ここに主がいたと思うともどかしくて悔しくて、なぜか郷愁のような寂寥を感じた。
 自分より先に主が起床してしまったのなら仕方がない。朝食をとるために広間へ進む。昨夜の宴会で深酒した連中はまだ寝ているらしく、人数は少なかった。無意識のうちに女の姿を目で探している自分に腹が立ったが、しかし彼女はどこにも見当たらないのだった。
 ぽつぽつと離れて座る刀剣たちの間の椅子を引き、鶏肉と共に柔らかく炊いた粥を流し込む。雨季の朝はすでにじっとりと蒸し暑い。庭に目を向ければ、低木の真っ白な花がひとつ、斬り落とされた手首のようにぽとりと真下に沈むところだった。
 手を加えずとも自生する果物、なにひとつ不足することのない豊穣の国。時間はゆっくりと体の表面を撫でていき、どんどん感覚は鈍麻していく。この亜熱帯に本拠地を置く過程で政府側と何らかの取り決めがあったのだろう、管狐は滅多に姿を現さず、政府からの指令が下ることはない。ゆるやかな熱風に吹かれることだけが役目かのように、この本丸は孤立の城として在り続ける。
 そういえば久しく出陣していないことに気づいた。本懐を忘れた自分たちは、このまま湿度の高い風に晒されて錆びていくように思えた。

 少し遅い朝食を終えて部屋に戻る最中、廊下の真正面に探し求めていた姿を認めた。
 嫌になるほどいつもと変わらない。夜を共にした男たちを両脇に侍らせ、傲岸な笑みを浮かべて歩く王者の風格。この女は神社の参道すら中央を闊歩するだろう。白い腕が朝日に光る。不快感が胸を突き、腹におさめたばかりの粥を戻しそうになる。
 足が止まった膝丸に向かって女は顔色ひとつ変えずに向かってくる。ふわりと甘やかな香が届く距離まで来て

「おはよう。膝丸」

 返事をしなければ、と思うのに口は冷たく乾き、縫い付けられたかのように動かなかった。
 薄笑いを浮かべた目から逃れたくてふいと顔を背ける。今さら無礼な態度を取ったところで主が己に向ける視線は変わらないだろう。そのまま脇をすり抜けて向こうへ去ろうとしたところ、「待て」と厳しい男の声が飛んだ。

「主がお声をかけてくださったのだぞ。挨拶を返さないとはどういう了見だ」

 異国の司祭の装いをした打刀が目を吊り上げてこちらを睨んでいる。聖職者の格好をして己が仕える主と姦通しているのだから笑える話だ。盲目的に主を慕うこの刀とは元々折り合いが悪かった。無視して歩き去ろうとしたが、その態度がますます癪に触ったらしく乱暴に腕を掴まれる。

「貴様、いい加減、主に対する無礼が過ぎる」

 痛いほど腕を握り潰してくる男に、やれやれ、面倒なことだと思いながら睨み返す。

「離せ」

 打刀の手など払うのは容易いが、強引に振り解けば火に油を注ぐことになるだろうか、と思っていたところで仲裁が入った。

「長谷部。離しなさい」

 穏やかな声ながら有無を言わせない口調で主が言う。即座に腕を掴む力がゆるんだ。

「主…」
「いいのよ。ほら、喧嘩はやめて」

 しょぼんと犬のように勢いを失くした男は手を離すと彼女のそばに戻ったが、振り向いて憎々しげに睨みつける視線はそのままだ。事の成り行きを見守っていた伊達の刀も、笑みの形に隻眼を細めて無言の圧力をかけてくる。

「主はこの太刀に少々甘すぎますよ」
「膝丸は私のだいじな近侍なの。そう目くじらを立てないで?」

 長谷部の頰を撫でながら微笑む動作は慣れたもので、何人の男にそうやって媚を売ってきたのかと思うと黒い炎のようなものが渦を巻いた。

「ねえ主。このところずっと膝丸さんが近侍だから、そろそろ僕たちにも近侍を任せてほしいなあ。どうして膝丸さんだけ贔屓するの?」

 ようやく口を開いた燭台切が主の腰に手を回しながら問う。

「あら。光忠のことをこんなに可愛がっているのに不足なの?」
「主。俺はどうなんですか」
「もちろん長谷部のことも大好きよ」

 俺も、僕も主を慕っていますとはしゃいで主にまとわりつく刀たち。まるで茶番だ。いい加減見守る気にもなれず、今のうちに退散しようと足を踏み出した。

「膝丸のこともね」

 一瞬で固まった背中に視線が集中するのを感じる。

「膝丸は私のことが嫌いなのよね。でも私は大好きよ」

 心臓が刃物を刺された魚のようにびくびくとのたうった。嫌い。好き。相反するふたつの言葉が脳内で反響する。他の刀たちの前で聞かされるそれはまるで死刑宣告だった。振り向いた自分の顔は絶望していただろう。だって、本当に、心の底から嫌いだなんて思ったことは――。
 うふふと微笑む女は残忍で美しい羅刹のようだった。




「なんごくにも、おにがいるのをしっていますか」

 パキン、パキンと小気味の良い音を立てながら、今剣が白檀の芯を削り出す。
 雨だった。
 襖を開け放った部屋からは灰色に滲む空が仰げる。微熱を孕んだかのようにぬるい雨はそれ自体が獣の息吹のようだ。今剣とふたりっきりでひっそりと息をひそめていると、ここは自分たちだけの密林のように思えた。
 香木のしっとりとした芳香が、湿気をふくんだ空気に溶ける。懐かしい寺院の香り。

「なんごくのおには、プルメリアのかおりとともにあらわれるそうです」

 重厚感のある白檀は、太陽を思わせるあの花の香りとは種類が違う。しかし白檀とプルメリアが合わされば、えもいわれぬ魔性の香へと変貌する。

「しろいはだにくろいかみの、うつくしいおんなのすがたをして、たぶらかしたおとこのちをすいあげます」

 小刀を握るちいさな手に力がこもる。乾いた音と共に木の粉が飛び、一層強い芳潤な香りが鼻先まで匂った。
 じっと見守る膝丸の目線に合わせて、今剣は頰を綻ばせた。

「まるであるじさまのようですね」

 否定も肯定もできず黙って目をそらし、手元の白太を削る作業に戻る。白檀のかぐわしい香りは中心部の赤味のある芯材に集まっているため、外側を剥ぐ必要があるのだ。硬い木材を削るのは力仕事なので、太刀である膝丸がこうして今剣の手伝いをするのは珍しい話ではなかった。

「薄緑は、あるじさまがきにいらないのですよね」

 シュッ、シュッ
 切り落とした一枚の板の表面を均しながら今剣が言う。口を動かしながらも小刀を見据える目は真剣で、まるで職人のようである。かつては自分たちが一介の刃物だったはずなのにおかしなことだと思う。本体の刀は自室に置いたまま、人殺しの道具としての本分を忘れてしまったとしても、刀であることからは逃れられない。

「あなたのきもちはわかります」

 幼い横顔をちらりと見やる。
 どういうことだと先を促そうとしたが、今剣はそれ以上言及するつもりはないようだった。

「教えてくれないか」
「なにをですか?」
「どうして皆が皆、主のことを好きになるのか」

 今剣は手を止めてこちらを見つめた。濡れたような真っ赤な瞳が輝いている。

「ぼくたちはみな、まほうにかけられているのです」
「魔法?」

 復唱すると、今剣は重々しくうなずいた。

「あるじさまをすきになるまほうです」

 ふしぎにおもったことはありませんか、と彼は続ける。子供らしくたどたどしい言葉使いと湿った息の温度。

「なぜぼくらはこんなところにすんでいるのでしょう?」

 雨音に紛れて、遠くで銅鑼の鳴る音が聞こえる。スコールの間の暇を潰す遊びだ。怠惰な音楽に合わせて刀たちが踊っている。この豊かな土地に生まれて自分たちはすっかり平和惚けしてしまった。楽園とはこんな場所なのだろうか。あるいは、永遠に同じ日々を繰り返すだけのここは、地獄なのかもしれない。

「せかいのかたすみにとりのこされたらなにをしますか。にくみあうより、あいしあうほうがかしこいでしょう」

 世界の片隅に取り残されたなら憎み合うより愛し合うほうが賢い。
 なにひとつ間違いではなかった。

「俺にも魔法をかけてほしい」

 体の芯は熱を持つくせにつめたく冷えた唇から吐き出した。声が震えるほど切実な願いだった。曇りのないただの好意で主のことを愛せたらどんなに楽だろうか。汚泥のように心に溜まる憎しみを根こそぎ洗い落として、他の刀と同じようになんの執着も邪気もなく、あの誰にでも向けられる優しい手を握りしめて抱き合うことができたなら。

 ふっと今剣が哀れむように笑った。

「もう、かかっていますよ」

 雨音、沈黙。向こうからゆったりとした旋律が流れてくる。穏やかな音楽に合わせて刀たちが歌っている。
 膝丸はそこに混ざることはできない。



 この本丸では虫除けのために香を焚き染める習慣がある。刀剣たちはみな支給金で思い思いの香を選びにいくのだが、中でも膝丸が好んだのは白檀だった。先日、今剣と共に削り出した木片はいま、ふくよかな香を放ちながら燃えている。馴染みのあるこの香りを自室に漂わせていると、魂が故郷に帰ったような気がして落ち着くのだ。
 氷の溶けかけた茶を飲みながら算盤を弾いていた手が止まる。簿記の計算がどうにも合わない。何度か計算し直したが駄目だった。こればかりは主に直接確認するしかあるまいと重い腰を上げて部屋を出る。できれば会いに行きたくはない。下手をすれば昼間から男を連れこんでいかがわしい遊びに興じているのだ。離れの部屋に近づくごとに沈んでいく気持ちを奮い立たせて奥を見やれば襖は開け放たれていた。
 臙脂色の厚い生地の更紗を少しだけめくって中の様子を探る。それがすぐに間違いだったと知る。

 白い少年が主の胸に埋もれていた。
 さらけ出した豊かな乳房に乳白色の髪が垂れている。彼の唇は柔らかそうな乳房の頂きをくわえていた。目を閉じて長い睫毛を震わせ、桃色に上気した頬で女の胸を吸っている。
 主は満足そうな微笑を湛え、美しい手で幼子をあやすようにその頭を撫でている。一切の音は厚手の絨毯に吸い込まれて消え、日陰の中でぼうっと浮かび上がる白。白白白。聖母像のようだと思った。無風の温室で汗ばみながら抱き合う少年と女。まるで絵画のような光景だった。
 ちゅぷ、と音を立てて少年が唇を離したせいで静謐の世界は終わった。とたんに熱帯の重い空気が流動を始める。目を合わせて微笑み合い、女が手を伸ばしてやけにいやらしい手つきで少年の薄い胸を撫でる。苦悶とも微笑ともつかぬふうに顔を歪め、少年は再び主の乳房にくわえつく。
 女はおもむろにこちらを向いた。
 最初から知っていたのかのように笑って膝丸を見ている。

 永遠にも一瞬にも思えた時間は唐突に終わり、女はふいと目をそらして少年に愛しげな視線を戻す。その瞬間、心の中でぎりぎりの均衡を保って積み重なっていた塔が瓦解していった。
弾き出されたかのように走り出す。廊下の軋む足音で気づかれてしまうだろうが配慮する余裕はなかった。自分の部屋に転がりこんでバクバクと打つ鼓動を聞く。嫌な汗と動悸が止まらない。口元を押さえながら荒い呼吸を繰り返し気持ちを落ち付けようとするが、感情に反して下半身は硬くなっていた。
 半ばやけになって袴を下ろし、情けなく屹立した性器を取り出した。目を閉じるまでもなくさっきの光景が蘇る。柔らかく形を変える主の白い胸、愛おしげに頭を撫でるたおやかな手。そこに抱かれて乳を吸っているのが自分だと想像して滅茶苦茶に性器を扱いた。
 達するのはあっという間だった。涙ぐんだ視界に白濁に汚れた手が見える。一瞬の快楽が引いたあとにはただ訳のわからない悔しさだけがこみ上げてきた。なんて報われないのだろう。何もかもが儘ならない。白檀の香りと栗の花に似た匂いが合わさった噎せ返る空気の中で、声を押し殺して泣いた。

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