甘ったるく重い香の匂いが充満する。女の体臭と混じったそれは吐き気がするほどに不快でそのくせ腰に響くほど官能を刺激するので苛立ちが増す。
 襖を開ける前から漂っていた情事の香りに辟易しつつ部屋に侵入した。案の定、乱れた布団の上には二人ぶんの山が膨らんでいる。昨夜の相手は誰だったのだろうか、知りたくもないのに枕元の青い髪が目に入ってああ一期一振かと合点した。

「朝だ。起きろ」

 近侍の仕事は怠惰な主を起こすことから始まる。
 毎晩違う男を連れ込んでいる寝所にずかずかと踏み込むのは嫌に決まっているが、審神者直々に命令されては拒絶できないものだった。
 毛布から飛び出した白い腕がぴくりと動き、続いて一人ぶんの膨らみが揺れた。

「さっさと起きて支度をしろ。朝餉ができている」

 それだけ言い捨てて踵を返した。一刻も早く魔窟のような女の部屋から出たい。しかし忌々しい声が踏み出した足を呼び止める。

「膝丸」

 神経を逆撫でするような甘くかすれた声が己の名を呼ぶ、たったそれだけで意に反して体は反応し肌が粟立った。
 振り向くと布団の中から主が媚びた笑顔で見上げている。服なんて纏わない剥き出しになった首、肩、胸の白と、そこに散らされた赤。匂い立つようなみずみずしい腕がこちらに伸ばされて、誘う。

「起こして。腰が立たないのよ」

 わずかな期待が占めていた場所に嫌悪感が洪水のように溢れて心を埋め尽くす。その奔流はそのまま罵声になって飛び出しそうで、なぜか目元にも込み上げてくるものがあったからぐっと歯を食い縛って耐えて、それから、口を開こうとした。その瞬間、たおやかな腕は唐突に他の男の手によって奪われ、布団の上に縫い戻された。

「主様。目移りしないでください」

 骨ばった男の手の中に主の柔らかな手が握り締められて潰される。とてつもなく淫靡に思えて目を逸らした。

「一期がいるではありませんか。朝から別の男を呼びつけるなんて無粋はお止めください」

 寝起きの男は昨夜の熱を引きずった湿り気のある声で裸の体を主に擦り付ける。くすくす。主が笑った。困った子ねと囁き返して水色の頭を撫でる。もうこの場には膝丸はいない。足音を立てず退室し、ぶつけあぐねた苛立ちと惨めさを背負いながら廊下を進んだ。ほんの数分の日課だというのにいつものごとく気分は低迷し鉛を飲み込んだかのように重い。
 陰鬱を抱えながら渡り廊下を進む途中、ちらりと目にした庭園には、背の低い南国の木が並んでいる。甘い芳香を放つ鮮やかな白や赤の花が地に散らばり、短刀たちがそれを拾っているのだった。
 膝丸に気づくと、短刀の一振りが笑顔で手を振り近寄ってくる。彼の頭上で赤い花束が揺れた。プルメリアの花は枯れる前に落ちる。落ちた花を拾って香にするのが短刀たちの日課だった。

「薄緑! あとで香木をくだくのをてつだってください」

 赤いプルメリアの花に白檀を足せば、主が好んで纏うあの香りになる。沸き立つ陽光に白くちぎった雲、憧れと侮蔑、怠惰。そのすべてを一瞬で思い起こさせる匂い。

「てつだってくれたら、薄緑にもはなかざりをあげますよ。いまから、あまったおはなでかざりをつくるんです。あるじさまがよろこぶから」

 無邪気な今剣に返す言葉はなく、曖昧に返事をして歩を再開する。
 誰も彼もが笑顔であの女に花を贈るのが理解できない。あの淫売を喜ばせて何になるのだ。
 服に移った濃い香りをふと嗅ぐたび、ありもしない己と主との情事を連想しては掻き消した。
 汚らわしい。


 午後、馬に餌を与え終えた頃だった。湿度の高い風が吹いて、分厚い灰色の雲が空を侵食してくる。一雨来そうだなと予感してから降り出すまでの時間は短い。後始末も早々に屋敷の中へ戻ると、短刀たちが慌ただしくドタドタと足音を鳴らして雨戸を閉めていくところだった。外で作業していた刀剣たちが大急ぎで屋根の下に飛び込み、間一髪というところでザアアと土を打つ音が響き始める。
 篠突く雨が庭園を煙らす。さっきまでじっとりと蒸し暑かった気温は豪雨の襲来と共にぐっと冷えて肌寒いほどになっていた。

 この地域には雨季というものがある。
 どういう理由があったのか、我らの本丸は亜熱帯に居を構えている。四季はなく、一年を通して温暖で、乾季と雨季を繰り返す。生身の肉体を得た当初、日本刀にとって馴染みない場所で生活するのにかなりの混乱を覚えたものだが、いつの間にか適応しているのが不思議だった。
 雨季の真っただ中である現在、スコールという集中豪雨が連日のように訪れて辺り一帯を水浸しにしていく。降り出してしまえばこの土砂降りの中外に出ることは不可能で、室内でできる仕事に着手するしかなかった。

「お疲れさまです」

 手袋を外しながら居間に足を踏み入れると白い脇差の少年に微笑まれた。純粋を絵に描いたような笑顔の彼は、西洋風の湯呑みと砂糖入れを抱えている。

「ちょうどお茶を淹れようと思っていたところなんです。膝丸さんもいかがでしょうか」

 奥の台所では湯の入ったやかんが沸騰していた。もうもうと白い湯気を立てるそれは外仕事で疲れた体には魅力的に見えた。

「ありがとう。ではいただこうか」

 物吉はにっこりとうなずき、湯呑みと砂糖入れをテーブルに置くと台所へ戻って行った。
 茣蓙の上に並んだ藤椅子。この本丸には異国情緒が雑多に混在している。物吉がポットに湯を注ぐ音を聞きながら藤椅子に深く腰掛け、大きく取られた窓から雨の庭を見た。鮮やかな緑が殴りつけるような水粒に打たれて項垂れ、濡れて光る葉脈からは爽やかな草の香りが届くようだった。

「お待たせしました」

 朗らかな声と共に物吉が居間に戻ってくる。繊細な模様が施された白磁のポットを傾けると、澄んだ紅茶が鮮やかな曲線を描いて湯呑みに満ちていく。この本丸でお茶といえば紅茶やその他、ハーブや果実を蒸らしたものを指すのだととうに学習していた。
 物吉に礼を言って、陶器の細い持ち手をつまみ紅茶に口をつける。飴色の液体が喉を滑り落ちていく熱さが心地よい。物吉は砂糖とミルクをたっぷり加えたものをふうふうと満足そうに飲んでいる。脇差の淹れる紅茶は素晴らしい。
 熱い茶をすすりながら、水飛沫で白っぽく濁る庭を眺めているだけで荒んだ心が洗われる。物吉は爛れた本丸の雰囲気に飲み込まれずにいる希少な刀だった。いかに周囲が乱れようと善良な姿勢を崩さないこの脇差のことが好ましかった。
 半刻ほどで雨は止むはずだ。一息ついてから刀装でも拵えようかと思案していたところで床板の軋む音が聞こえた。

「もういい、大倶利伽羅」

 心音が跳ね上がり全身が冷たく緊張した。
 しかし、と口籠もる男の声に被せて「暑苦しいの。あなたは湯浴みでもしてきなさい」と女が言う。口調は穏やかで強制するような圧力もないのに、彼女に嫌われては生きていけない男たちは慌てて言いなりになるのだ。
 大倶利伽羅の足音が遠ざかると暖簾代わりに垂らしてある薄いベールをくぐって主が姿を現した。露出が多いのはいつものことだが今日は手首に白い花飾りを巻きつけている。今剣たちが作ったものだろう。

「主様、こんにちは。お茶はいかがですか」

 先ほど膝丸に呼びかけたのと寸分違いのない口調で物吉が笑いかけた。

「嬉しい。喉が渇いていたの」

 主は気怠げな微笑で返し歩いてくる。ぶわりと重いいつもの匂いが鼻をつき眉根に力がこもる。さっさと退室してしまおうと思って残りの少なくなっていた紅茶を飲み干そうとしたが、女は素早く隣の席に腰掛けてきた。

「膝丸とお茶するのは久しぶりね」

 含みのある声と共にテーブルに置いていた手を握られる。汗のせいか湿気のせいかしっとりとした柔らかい手が指の上から重ねられ、鳥肌が立った。この手で男を抱いている。さっき別れた大倶利伽羅とだってなにかしら戯れていたのだろう。どろどろとした 黒い感情が燃え上がって、気がついたらとっさに女の手を振り払っていた。あ、しまった、と内心焦ったが、主も物吉もさっきまでと変わらぬ笑顔で微笑んでいるだけだった。
 気味が悪い。

「俺はもう行く」

 後にも引けなくなって乱雑に立ち上がる。物吉と主を二人きりにするのは少々気が進まないが、自分がこの場に留まるのはもっと耐えられなかった。

「行っちゃうのね」

 少しも寂しいとは思っていないくせに。
 二人ぶんの視線を感じながら居間を出た。雨戸を閉めた廊下は薄暗く豪雨が庭を打つ音だけがけたたましく鳴り響く。物吉と紅茶を飲んでいたときの穏やかな気分は霧散し、あとには雨雲のように渦を巻く不快感だけが残っていた。

 あの女が嫌いだ。束の間の契約だとしても名だたる名剣名刀の主となった者が誰彼構わず体を開き、出陣以外の執務は近侍に丸投げして遊んでいる。浅ましく男の欲を掻き立てる媚態、声、爪先に至るまでの動作のひとつひとつが目障りでたまらない。人の身を得たことで肉の快楽を知った刀たちは誘われるがままに体を貪っている。馬鹿なことだ。自分はそうはならない。あの女と刀が連れ立つを見かけるたびに黒く煮え立つ感情は嫌悪以外のなにものでもない。嫉妬などしていない。


 夜になればすっかり空は晴れ上がっていた。色とりどりの光の粒が幾千と瞬き、乳白色に滲んだ運河までよく見える。亜熱帯の雨上がりは良いものだ。ひんやりと湿った空気は不快ではなく、肌に吸い付くようなみずみずしさがある。こんな気持ちのいい夜は庭に茣蓙を敷き、夜空を見ながら酒を飲み交わすのがお決まりの行事だった。
 大皿の上には酒の肴ではなく山盛りの果物が載っている。畑の奥の敷地に樹木が自生している果樹園のような土地があり、雨季、旬を迎えた果実が食べきれないほどに枝をしならせているのだ。好きなものを好きなだけもいでかぶりつくのは、短刀のみならず本丸中の刀剣たちの楽しみだった。この夜、膝丸は紫の皮に包まれたマンゴスチンの果実を齧りながら、周りの刀剣たちの談笑をなんとはなしに聞いていた。

「あーあ、俺も主に夜這い命じられたいよお」

 ふいにその言葉を耳が拾ってしまってぎくりと体が強張る。目だけでそちらをうかがえば幕末の若い刀たちが目尻を赤く染めて愚痴っている。酔っているのだろう。

「昨日は一期で、一昨日は三日月さんでしょ? その前は鶴丸さんだっけ。太刀ブームが来てるのかなあ」
「でも今日の昼は大倶利伽羅のやつを部屋に連れ込んでなんかやってたぜ?」
「兼さん、覗き見してたの? それはよくないよ」
「ちげーよ、あの二人が手ェ繋いで離れの部屋に行くのを見ただけだっての」

 案の定、気分の良い話ではない。場所を移動すればいいのだがどうにも離れることができなくて、耳だけそばだてながら彼らの話の続きを聞く。

「でもさあ、主には感謝してるよねー。あんな気持ちいいことを知らなかったら肉の器を得た喜びが半減しちゃうよ」

 そんなに良いものなのだろうか。女の体に自身を突き立てる行為は、もしかしたら刀の身が温かい人の肉に突き刺さる感覚に似ているのかもしれない。血に塗れた刃がぬるついた肉の中で動く感覚を思い出す。ならば体液が溢れる女の穴に己を刺し込むのも大層気持ちがいいだろう、と夢想すると体が熱くなった。

「こないだは、僕と清光まとめて可愛がってくれたよね。僕は主を一人占めしたかったけど…でも、あのときの主はすごくえっちでたまらなかったなあ」
「お前ら3Pしてんのかあ? 俺はそういうのごめんだな、自分の女が盗られたみたいな気分になるだろ。なあ国広」
「え?うーん…ごめんね兼さん。僕、兄弟と一緒に夜伽したことあるんだ」

 マジかよ!と叫ぶ和泉守の声を聞きながら、生々しく下品な話に嫌気が差すと共に疎外感を覚えていた。
 自分は誘われたことがない。今までに一度も、夜伽の命を下されたことがない。顕現してまもなく近侍に指名され、朝から晩まで主の溜め込んだ仕事を片付けているというのに、誰とでも枕を交わす彼女は膝丸とだけは一線を越えようとしないのだ。なぜなのか、理由は分からない。膝丸が露骨に主のことを嫌っているせいかもしれない。しかし刀剣男士は審神者の命令を断ることができないように作られているはずなのだ。主が望むのなら夜伽の命令一つで己の体は好きに使われるはずなのに、どうして、声がかからない。
 いや、主と寝たいわけではないのだ。己を軽んじられているようで我慢がならないだけだ。

「見なよ。今夜の相手は長谷部と燭台切さんだよ」

 豊かな黒髪を束ねた沖田の刀がやさぐれたように顎でしゃくる。目を向ければなるほど、プルメリアの木陰に隠れて気づかなかったが、両脇に打刀と太刀を侍らせて酌をさせる女の姿を認めた。甲斐甲斐しく果物の皮を剥く男と、やけに親密げに肩を抱く男に挟まれて、主は満更でもない顔をしている。優しいくせに冷たさを潜めた笑顔もいまは自然と緩んでいるように見えた。そんなにその男たちが好みなのか。

「今夜もお預けだね」

 酒を煽りながらまあ仕方ないと互いを慰めて幕末の彼らは雑談に戻る。主が誰彼構わず関係を持つことに疑問はないのだろうか。好きな女を独占したいと思うものではないのか。
 その後、酔った平安刀たちが現れて夜が更けるまで絡まれていたので、主とその情夫たちのことはしばし忘れた。くだらない話をできる仲間というのも時にはありがたい。
 流されるまますっかり酒に飲まれて、気づけば己の部屋の布団の上で朝を迎えていた。自力で戻ったのか誰かに運んでもらったのかさえ覚えていない。襖の間から差し込む強い光に一瞬で覚醒した。寝過ごした。いつもなら朝餉を済ませて主を起こしに行く時刻だ。大急ぎで服を着替え、明るい光が溢れる南国の廊下に飛び出す。仕事を放棄するという選択肢はなかった。

スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。