3


 書卓に重ねた小判を数え上げ、私は両手を広げて万歳のまま背後に倒れこんだ。

「終わったーー!!」

 長い一月を終え、ついに完済の日が来たのだ。これでもう、なにもかもなかったことにできる。二度とクラブには行かないし怪しいバイトに手を出すこともしない。膝丸と毎晩過激なプレイに勤しむ必要もなくなり、かつてと同じ刀と審神者としての関係に戻る。そこまで思って胸がズキリと痛んだ。

 この一月抱かれ続けて、私はすっかり膝丸のことが好きになっていたようだ。
 二個も三個も卵を入れられたまま気を失うまで酷くされたかと思ったら翌朝、まだ離れたくないとか言って甘えて胸元に擦り寄ってくる。あの低く穏やかな声で可愛いだとか好きだとか囁かれて意識しないはずがなかった。

 それでも、膝丸が優しいのは情事のときだけだった。
 日中、彼が私に向ける声には夜の熱さの一欠片もなく、淡々と事務的な連絡をしてはすぐ仲間の元へ戻ってしまう。時折視線が交わることがあっても何食わぬ顔でさらりと逸らされてしまう。そのたびに刃物で心を裂かれるような痛みが走った。
 だからいつの間にか夜を心待ちにするようになっていた。膝丸が体だけが目当てだとしても、翌朝にはもっと辛い気持ちになっていたとしても構わない。
 しかしこれでもう秘密のバイトを口実に抱かれることはなくなってしまう。いっそのことただのセフレでもいいから関係を続けていてほしい、なんて頼むのは強欲だろうか、それとも弱虫だろうか。


「主。大きな声が聞こえたが大丈夫か」

 思い描いていた男の声が降ってきて跳ね起きた。
 内番服姿の膝丸が障子に手をかけて首を傾げている。

「終わったとかどうとか。任務の話か」

 まっすぐな瞳に見つめられて性懲りも無く胸が高鳴る。体内を脈打つ熱を悟られないように私はこっそりと手招きをした。

「膝丸、あのね」

 不思議そうな顔をしながらも膝丸は体を屈めて私に耳を近づける。周囲に誰もいないことを確認して私は口を開いた。

「…お金、全額稼ぎ終わったんだ。これからは、もちの卵を孵化させるバイトはしなくていいの」

 膝丸は大きく目を見開いた。

「……そうか」

 噛み締めるようにつぶやいたあと、彼は顔を上げて晴れやかに笑った。

「ならばもう、茶番はお終いだな」

 頭の上に重い石を落とされたようだった。

「やっと終わりにできる…この日を待ち望んでいた」

 嬉しそうに告げられた言葉が脳を撃ち抜いていく。理解が追いつかない。茶番。やっとお終わりに? 待ち望んでいた? 呆然と固まる私をよそに膝丸は足取り軽く部屋を出て行った。 
 一人ぼっちで取り残された私を数拍遅れの強烈な絶望感が襲った。

 膝丸はしたくなかったんだ。
 仕事だから仕方なく私を抱いていただけで、終わりにするのを待ち望むくらい本心では嫌がっていたのだ。茶番だと言った。最中の甘言も優しい態度もすべて演技で膝丸にとっては馬鹿馬鹿しい茶番劇だったのだ。

 じわじわと痛みが実感を持ち始める。

 そういえば膝丸は以前から私のことを頼りのない主だと呆れていたではないか。散財を打ち明けられた挙句ろくでもないバイトに付き合わされて辟易していたとしても何らおかしくない。膝丸が私のことを好きになる要素なんてどこにもないのだ。もしかしたら最初は手っ取り早い性欲処理機として重宝していたのかもしれないが、一月も続ければ飽きてしまったんだろう。セフレでもいいから繋ぎ止めていたいと願った己の愚かさを呪う。金輪際膝丸が私を抱くことはないだろうし、熱く甘い言葉を聞かせてくれることもないだろう。

 好きになんてならなければよかった。

 打ちのめされた現実にようやく感情が追いつく。割り切った関係のはずがちょっと優しくされてセックスしただけで恋してしまうなんて己が馬鹿だったのだ。ほんの一月前までは膝丸のことなんてちっとも好きじゃなかったのに。
目と鼻の奥が熱くなって涙が込み上げてきそうになったその時、

 ガタッ

 部屋の隅に積み重ねていた書類の山が揺れた。
 驚いて目をやれば開きっぱなしの本の下からちいさな生き物が這い出てくる。団子のようなシルエットに見慣れた緑と黒白のカラーリング。

「もちひざちゃん?」

 何匹も孵化させてきたのだ。見紛うはずはない。孵化したもちひざはすべて業者に引き渡してきたはずなのに、なぜここに残っていたんだろう。もちひざはおそるおそる近づいてくると寸胴を懸命に逸らして私を見上げた。

「…もしかして、バイトが終わるまで隠れてたの? 売られるのが分かってたから?」

 手のひらに乗せながら問いかけるともちひざはコクリと体全体を屈めて返事をした。悪い子だけどお利口さんだ。実を言うと、お金のためとはいえ苦労して産んだもちひざを手放すのが嫌で心が痛んでいた。言ってみれば膝丸と私との子どものようなものなので可愛くないはずがなかったのだ。

「残っていてくれて嬉しいよ」

 もちひざを乗せた手を顔の前まで持ってくる。頭を撫でると嬉しそうに目を細めた。その仕草が甘えてくるときの膝丸そっくりだったので突然決壊するように涙が溢れて止まらなくなった。
 ボロボロと落ちた水滴がもちひざにぶつかる。もちひざは慌てて私のほっぺにちゅっとちいさな口をくっつけた。肌を濡らす涙を懸命に舐め取ろうとしている。慰めてくれているらしい。

「もちひざちゃん…ありがとう。今夜は一緒に寝てほしいな」

 思わず泣きながら笑うとほんの少し心が軽くなった。もちひざは何度もうなずいて、最後に唇の横にキスをした。いつも去っていく前に触れるだけの口付けをくれた膝丸みたいに。



 その晩、夕食の席で珍しく膝丸が話しかけてきたがなにを言われたのか全く記憶にない。顔を見るのも耐えられなくて早々に自室へと引きこもった。泣き腫らしたまぶたは保冷剤で冷やして少しは目立たないようになっていたと思うが、万が一にも他の刀剣たちに心配されるのは嫌だった。
 お風呂に入っていつもより早い時間に布団に潜り込む。一人で横たわる布団は妙に広く感じてまた涙が出そうになり、胸元のもちひざをぎゅっと抱き締めた。なにも感じないように心を無にする、早く眠りの世界へ旅立ちたい、強く念じて固く目を閉じる。

「主?」

 襖障子越しに聞きたくない声が聞こえて心臓が止まりそうになった。

「寝ているのか?」

 入るぞ、という声と共にスッと障子が引かれ、続けて足音が侵入してくる。

「起きているんだろう。どうしたんだ、体調が悪いのか?」

 温かい手がそっと頭を撫でてくる。今となってはその優しさも体温も表面を上滑りするだけの見え透いた芝居だった。重たい頭を回して枕元に立つ膝丸を見上げる。

「…なにしにきたの」
「夜這いだ。毎晩していただろう」

 平然とした態度にブツリとなにかが切れた。
 この後に及んでまだ茶番を続けるのか。

「…もうバイトは終わったんだから、膝丸に抱かれる必要はないでしょ?!」

 突然大声を上げた私に膝丸は驚いて目を丸くする。視界が滲んでくるのを歯を食いしばって抑え、体を起こして真正面から彼を睨みつけた。腕の中でもちひざが不安そうにもぞもぞと動く。

「こんなのおかしいって…膝丸もそう思ってるんでしょう? やめにしようよ、私もう…膝丸とするの…辛いよ」

 泣くまいと決意していたのに最後のほうは声に涙が混じって尻すぼみになってしまった。情けない顔を見られたくなくてうつむく。膝丸は沈黙していた。呆れているのだろうか。それでいい、どうかこの目が涙を留めていられるうちに立ち去ってくれ。

「…主は俺と寝るのが嫌だったのか?」

 長い空白の後にぽつりと声が響いた。
 思わず顔を上げると、なぜか膝丸のほうが酷く傷ついた表情をしている。

「…泣くほど辛かったのか? すまない、俺は…君がそんなに追い詰められていたとは知らずに…自分の欲ばかりを優先していたのだな」

 うつむいた膝丸の顔が前髪で隠れる。握り締めた彼の拳が震えているのを見てなにかがおかしいと違和感が主張し始めた。

「…君の体は手に入れられても心までは得ることが出来なかったのか。ああ…俺は、一月の間なにをしていたんだろうな。人の心ほど思い通りにならないものはないと、長く生きてきた中で知っていたはずなのに」

 話が噛み合っていない気がする。早鐘を打ち始めた胸にはわずかな期待が膨らんでいた。

「膝丸は、私を抱きたくないんじゃなかったの…?」
「まさか!」

 血相を変えて顔を上げた膝丸の瞳はうっすらと潤んでいた。いつになく必死の形相で弁解するようにまくし立てる。

「主のことが好きで好きで自分のものにしたくてたまらなかったから体を奪った。君が他の刀剣と親しくしているのを見るたびに嫉妬で己が醜い鬼になっていくようで耐えられなかったのだ。しかし、こんなに傷つけてしまうとは…本当にすまなかった…俺のことが、嫌いだろう?」
「待って…。でも茶番だって…! やっとお終いにできて嬉しいって、言ってたじゃない…」
「それは、金儲けを名目に君を抱くことを辞められるからだ。今後は偽りない俺の本心から君を抱くことができると、そういう意味だ」

 思いがけない事実に混乱する一方、頭の中でしゅるしゅると謎が解けていくようだった。感情の発露を引き金に抑えていた涙が込み上げてくる。

「…でも、昼間に会った時、膝丸はいつも素っ気なくて、ろくに目も合わせてくれなかったよ…? 私はすごくそれが…悲しかった」
「ああ、それは…このバイトのことは秘密だったろう? 俺と君との関係を誰にも悟られてはならないと、今まで通りに振る舞って必死に隠していたのだ。誤解させてすまなかった」

 力の抜けた体では溢れる涙を止めようもなかった。安心感が胸を満たしていく。嗚咽を漏らして泣き始めた私を膝丸の温かい腕が抱き締めた。
 
「好きだと何回も伝えただろう。俺はずっと前から君のことが好きだった」

 そんなの嘘だと思っていた。気分とムードを盛り上げるための演出だと。彼の広い背中に腕を回してぐちゃぐちゃになった顔を胸元に埋める。

「私も…膝丸が好き」

 心の底から、その言葉を告白できて良かったと思った。
 膝丸は泣き濡れた私の頬を柔らかな唇で拭ってくれる。

「これからは、誰にも隠すことなく堂々と恋人同士だと言えるな」

 大好きな熱っぽい緋色の瞳に見つめられて微笑んで答える。どちらからともなく唇を重ね、今までで一番幸せな夜の始まりを予感した瞬間だった。

 ポヨンポヨン

 唐突に膝の上でなにかが跳ねる感触がして、二人の世界から引き戻された。
 すっかり存在を忘れていたもちひざが抗議を表すように私の膝の上でジャンプしている。豆粒ほどの手足と太巻きのような寸胴でどうやって跳ねているのかは不明だが、ともかく必死になにかを訴えようとしているようであった。

「…また邪魔をするのか、こいつ」

 膝丸が憎々しげに呟く一方、私はもちひざとの約束を思い出してあっと声を上げた。

「もちひざちゃん! そうだ、今夜は一緒に寝ようって約束したよね…」

 もちひざはコクコクとうなずいて肯定する。膝丸はハァ?と声を荒げた。

「なんだと?」

 もちひざには失恋したと思い込んでボロボロに泣いているところを慰めてもらった恩があるので約束を有耶無耶にすることは出来ない。

「膝丸、今夜は三人で一緒におやすみするのでどう?」
「眠るだけか…?! ここまできて君を抱けないなんて…」
「毎日やってたんだし今日は休憩っていうことで…。膝丸とえっちするのも好きだけど一緒にいるだけでも幸せなの」

 と言うと、膝丸は顔を赤くして目線をさまよわせた。
 今夜ばかりは想いが通じ合った幸福に穏やかに浸るのもいいだろう。膝丸には生殺しかもしれないがこのくらいは耐えてもらおう、なんせ今まで散々色んな意味で泣かされてきたのだから。


 二人で向かい合って真ん中にもちひざを挟む。少し窮屈な布団の狭さが愛しい。
 おやすみと告げようとしたところ、もちひざがちょんちょんと膝丸の顎をつついていた。

「…ああ、分かっている」

 ため息混じりに返事をした膝丸を不思議に思う。

「膝丸はもちひざちゃんの言葉が分かるの?」
「…今度主を泣かせたら許さないと言っている」

 分身みたいなものだから意志の疎通ができるのだろうか。なんだかんだで仲良くなりそうだなあと微笑ましく見守っていると目の前に膝丸の瞳が迫った。

「主、好きだ」

 ちゅっと触れるだけのキスをして離れざまに「明日からまた愛し合おう」と囁かれ、また眠れない夜が再開するのかと苦笑する。もちひざが不満そうにもぞもぞと動いていたけれどそれすら愛しくて、一人と一匹まとめて抱き締めて幸せな日々の幕開けを祝った。





 本丸公認のカップルになってしばらく後、うっかり発見されてしまったもちひざが皆の前につまみ出され「もう子供を作ったのか…」と驚愕を集めたが、本当のことを説明するのは難しいので曖昧に流していた。


「そろそろ次の子を産んでもらっても構わないのだがな、主。皆も祝福してくれるだろう」
「あはは、冗談でしょ…」

 そう言って押し倒してくる膝丸の目が本気なのが最近の懸念である。


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