・転生モノ

今日は午後から授業だ。
大学進学を機に一人暮らしをするようになったアパートで、わたしは朝ゆっくり起きて、たまっていた家事をこなし、お昼を食べてから出発した。
家を出るときは天気がよかったのに、駅に着いたころに突然降り始めた雨は土砂降りだった。
傘を持っていない。駅中のコンビニでビニール傘を買うしかないかなと思いながら、出口のところで立ち尽くしていると不意に声をかけられた。

「今から大学かい?」

シャツの胸元しか見えなくて目線を上げたところに、微笑む男の顔があった。
蜂蜜みたいな甘そうな目がふたつ、わたしを愛しげに見下ろしてくる。
とんでもなく顔の整った男だった。
こんなに美しい男は知り合いにいない。

「ちょうどよかったよ。仕事が始まるまでまだ時間があるんだ」

これから出勤だという彼は大きなこうもり傘を持ち上げて目を細めた。

「学校まで送るよ、あるじ」

バッと小気味良い音を立てて黒い傘が開く。
腰を抱かれて一歩、通路へと歩み出す。

「あ、あの」

戸惑いつつ彼を見上げるが、体を押されてどんどん先へと歩かされてしまう。バラバラと頭上で雨粒が傘を打つ音がうるさい。

「ああ、会いたかったよ、あるじ。ずっとずっと探していたんだ」

何年さまよい続けたことか。もう離さないからね。囁く声は低くて甘く、背筋を粟立たせるに十分な恋慕の情を感じさせた。
わたしは震える喉を励まして声を絞り出す。

「あなた、誰ですか」
「…? ああ、僕の顔よく見えなかったかな。ほら、これでどう?」

男は腰に回している手を頬のところまで持ってきて、そっとわたしの顔をそちらに向けさせた。
真正面から見つめ合う。相手の背が高いので首を逸らすようにしないと顔が見えない。
丁寧にセットされた黒い髪に、恐ろしく造形の整った顔。なにより特徴的なのは蜜色の瞳だった。ふたつの瞳が愛おしげにわたしを映し、昏くて深いその蜜に、わたしは溺れて死ぬ虫のような錯覚に陥る。

「光忠だよ。これでわかっただろう? 人間に転生しても見た目はあまり変わっていなくて良かったよ」

知らない。
こんなに見目の美しい男なら一目見ただけで忘れないはずだ。光忠なんて名前も聞いたことがない。もしかして彼は人違いをしてるんじゃないか。わたしを別の誰かと間違えているんだろう。

「すみません、わたしはあなたを知りません。人違いじゃないですか?」

そう尋ねると、彼の微笑みが凍った。

「……覚えていないの? 」

突然道の真ん中で立ち止まったわたしたちを通行人たちが邪魔そうに避けていく。
わたしを見つめるのは太陽を瞬間冷凍したような瞳。

「……燭台切光忠だよ。あの頃は太刀の付喪神だったけれど、君を探すために本霊との繋がりを断って人に生まれ変わったんだ。生まれてからずっと君を探し続けて、やっとこの街で会えたんだよ。ねぇ本当に覚えていないの…あるじ」

急に不安そうな真顔になった男はさっきまでの甘い雰囲気からがらりと変わり、縋るような逼迫した視線が重く体にまとわりつく。
固まったまま返事ができないでいると、沈黙の意味を理解したのだろう彼は泣きそうに唇を噛み、

「僕と君は恋仲だったんだよ」

とつぶやく。
付喪神やらあるじやら、意味のわからない単語が気になるが、彼の話を解釈するとわたしと彼は前世での恋人ということになるようだ。なんとロマンチックだが現実味のない話だろう。
冗談を言っているようには見えない。
この美しい男は気が狂っているのだろうか。

「……わたしには、よく分かりません」

傘を捨てて逃げようかと思った。しかし頬を掴む腕の力は緩められず、体格の良い彼の束縛を振り切って逃げ出すことは不可能だった。

「……そうか。忘れてしまっているんだね。大丈夫、すぐに思い出させてみせるよ」

ふっと息を吐いた彼が強張った笑みを浮かべてこちらを向き直る。ぽん、と大きな手で頭を撫でられる。柔らかく髪をくすぐるその手つきも、わたしを見つめる金色の目も心底愛おしそうで、その愛情を受け止める器を持たない自分には悪寒が這い上ってくるだけだった。
頭を撫でる手が離れた瞬間、歩道に飛び出した。とっさに伸ばしたらしい男の手が髪に触れたが、全速力で逃げ出すわたしを捕まえることはできなかった。
遠ざかる。通行人たちの群れに混じって駆ける。駆ける。雨が体を打つ冷たさも感じなかった。体が熱い。コンクリートを踏む足は感覚を失っていた。
男からはすっかり離れたところでふと気づいた。

ーーそもそも、一緒に歩いていた道は大学の方面ではない。
あの男はどこに連れて行こうとしたんだ。

震えが走るのは、体が雨に濡れたせいだけではなかった。



再会のときは案外早かった。飲み会があって帰りが遅くなったある日、アパートの部屋の前で待ち構えていたのだ。
まるで影のように立ち尽くしていた黒い男を視界に認めてぎょっとした時にはすでに、逃げられない距離にいた。

「あるじ!」

嬉しそうに飛びついてきた男がわたしの両手首を握る。硬直したまま見上げた顔は先に会った時と同じだったが、怪我でもしたのか、右目が眼帯で覆われていた。

「僕、考えたんだ。いくら見た目が変わっていないとはいえ、かつての僕は隻眼だったからね。目がふたつある状態じゃあ違和感があるよね、君が思い出さなくても仕方ないかって」

絶句して立ち尽くしているわたしの前で、彼はご主人様の期待に応える犬のように、心底嬉しそうに右目に手を伸ばした。
はらり、外された眼帯の下には、

「ほら、当時の僕の右目…焼けてたからね」

塞がりきらない生々しい火傷痕。べろりと剥けた皮膚の下に壊死した肉をのぞかせていた。眼球があったはずのところなんかは白く濁り、溶けて癒着したまぶたのすきまから膿を滲ませている。

「僕の眼帯の下、知ってるのは君だけだったよね…。せっかく今世では五体満足で生まれてきたのに片目を潰しちゃうのはちょっと気が引けたけど、でもこれで君が思い出してくれるならと思ってさ」

美しかった顔のバランスは崩れてしまったが、焼けた片目が奇怪な妖艶さを醸し出していた。
化け物じみた容貌に成り果ててなお無邪気に笑うので、この男の狂気と愛を思い知ってしまう。
わたしが呆然としていると彼はふと顔を曇らせて首をかしげ、

「……まだ分からない? なら両手も焼いてきたほうがいいかな?」

と、冗談でもなさそうな声でつぶやくので、わたしはとっさに

「……光忠」

とつぶやいてしまったのだった。

光忠は片目の潰れた顔で破顔した。

「ああ、よかった。思い出してくれたんだね」

離れ離れだった恋人が再会を祝うようにぎゅうっときつく抱き寄せられる。
抱擁された腕の中で耳元に唇をあてられた。

「今世ではやっと名前を呼べるね。××ちゃん。前世では君はどうしたって真名を教えてくれなかったから寂しかったんだよ。××ちゃん、かわいいね。××ちゃん」

愛しげに名前を繰り返すこの男を、わたしは知らない。


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