びぃん。
耳の奥で空気が爆ぜるような感覚がして、はっとする。作業をする手を止めて、庭の向こうを見やった。
「主が本陣へと帰還なされた!皆の者、集合せよ!」
次の瞬間、野太い声が響いた。
門が開く軋んだ音がここまで届く。短刀たちの歓声が聞こえ、どたどたとそちらへ向かう足音が続いた。
出遅れた。チッと内心で舌打ちをしながら、箒を放り出して門へと駆ける。
すでに大勢の刀たちが主を出迎えていた。
久しぶりの主の帰還に、皆喜びを隠しきれない表情をしている。短刀などは満面の笑顔で主にまとわりついていた。
「主」
遅れて輪に加わる。必死に駆けてきて少しだけ息が苦しい。それを悟られないように、大きく息を吸ってからにこりと笑った。
「おかえりなさい!」
主がやってくれば頭の中に何か波動のようなものが流れ込んできてそれと分かる。他の刀もそうなのかと聞いてみたところ、多くの刀はそうだと同意を示した。
実際そういうふうに設定されたのかどうかは分からないが、どうやら刀剣男士は主の気配を敏感に感じられるらしい。
なにしろ安定たち刀剣男士にとっても、こんな形で主に仕えるのは初めてだったので、不明な点のほうが多いのだ。
帰還した主に、久々の出陣、遠征、内番を命じられて、刀たちは浮き足立った。皆張り切って仕事に励む。
「使ってもらえるのは嬉しいけど、もっと頻繁にやってきてくれないかなー」
ふと、加州清光がぼやく。安定、清光を含む一軍の面々は出陣の最中で、敵の拠点に向けて足を進めているところだった。
「確かにね。斬らないと鈍ってしまうよ」
清光は一人ごちただけなのかもしれないが、隣に並んでいた安定はとりあえず声を返した。
「だよねー。主の指揮がないと俺達出陣できないしさ」
ちらっと清光が頭上を見やる。
主は陣形の選択や撤退の指示などを命じてくれるのだ。その指示は不思議と天から頭の中に響く。
「そうだね」
「うちの主は、審神者の仕事だけじゃなく、他のお仕事もしてるんだよなー? そっちが忙しくて審神者業がこなせないのかな…」
清光は不満を隠せない顔をしている。確かに、持ち主である主に構ってもらえないことは不服であった。人の形を与えられ自ら刀を振るう立場になっても、常に主に求められ、主の役に立ちたいと思う。それは道具の性分であるようだった。
安定もちらりと天に目をやった。
「それか、もう僕たちに飽きたのかもね」
そう呟くと、清光が険しい形相になる。
「は? …飽きた程度で、審神者を辞められないだろ」
そんな理由で主が俺たちを見放すわけないし、時の政府が許すわけない、と、語気を荒げる清光に、それ以上何か言い募る気にはなれなかった。
そうだねと小さな声で呟く。
理解できなくて当たり前だ。それに、前の主に手放された経験のある加州清光には嫌な話題だったかな。無神経なことを言ってしまった。少し反省する。
「おう、皆のもの。お出迎えだぞ」
岩融の声が二人を戦場へ引き戻す。彼方に異形の化け物たちの姿が現れていた。
久しぶりの戦闘に、血が沸くのを感じる。切る対象を目の前にすると、それしか考えられなくなるのだ。意識が刀に戻っていくようだ。心地よい高揚に全身を支配される。
頭の中に、主の指令が落ちた。
各々、殺気立った気配を振りまきながら、敵陣へ乗り込んでいった。
「ん……。主、褒めてくれるのは嬉しいけど、そんなに撫でなくてもいいよ」
本丸に帰城した安定は、主に頭を撫で続けられていた。
誉を取ったことを褒めてくれているのだろう。
主に褒められるのも撫でられるのも好きだが、こうしつこく撫でなくても……。ほら、他の刀からの目が厳しいんだから…。
しかし安定の苦言などどこ吹く風、と、主は頭やら頬やらを撫でまくる。
「うーん…聞いちゃいない…」
ため息をついて、主の手に手を伸ばす。だが安定が触れる前に、主の手がすっと外れた。
どうしてこう、噛み合わないんだ。
「え?任務?ちょっと待っててね、確認するから」
任務達成の確認をしてほしいと指示され、安定は急いで席を立つ。
主が傍若無人なわけではないんだ。こういうふうにできているんだ。
唇を噛みながら小走りに駆ける安定の心境を知るものは、この本丸には誰もいない。
溜まった任務をこなし、遠征と内番を命じた後、主は帰っていった。
ぷつりと接続が切れたような感覚がする。他の刀たちもそれは感じるようだ。
「主さん、次に来るのはいつだろう」
堀川が隣にやってきて隣に腰を下ろす。
「……さあ」
安定たちは縁側に腰かけて、庭で遊ぶ短刀たちを眺めた。屋敷の庭には、満開の桜が枝を揺らしている。もう何日も同じ景色のままだ。
「近侍の君にも、主さんは何も言わないの?」
堀川の目が不思議そうにこちらを見る。その無邪気な視線に、安定は苛立った。
「知らないよ」
お前のほうこそ、何も知らないくせに。
悪態を内心で押し殺し、安定は庭に再び目を向ける。空の端が暗くなっている。こんな空間にも夜はくるのだ。日夜のサイクルは存在する。主は知らないだろうけど。
「主はさ、主がいないときに僕たちがなにしてるか考えたことあるかな」
恨み節みたいなことを堀川にぶつけた。堀川はきょとんとする。
「もちろん。僕たちの主だよ? 来れないときだって心配したり思い出したりしてくれているはずだよ。主さんが可愛がってくれることは、君が一番知っているじゃない」
穏やかに微笑む彼に、弱々しい笑みを返すことしかできなかった。
主が行ってしばらくたつ。もう遠征部隊も帰ってきて報告待ちだし、こなすべき内番も終わってしまった。
自作の暦表に印をつける。
何日夜がすぎ朝がきたか、正確に数えているものは安定以外にいない。
夜更け。ひとりきりの部屋の中で、安定は主に出会う前のことを思い出す。
僕を愛してくれる人を見つけたくて、こんなところまで来たんだ。そう簡単に諦めたりしないよ。
ここが誰かに定められた箱庭だとしても。
その時、慣れ親しんだ感覚が頭の中に弾けた。
「!! 主!」
安定はすぐさま部屋を出て主を迎えに走る。時間が遅いだけあって、出迎えに短刀がいない。他の刀も不意をつかれてまだ出てきていないようだ。一番乗りだ。逸る気持ちを押さえられず口元がほころぶ。主の前に転がり出ると、安定は笑顔を華やがせた。
「おかえりなさーい!」
ふと、空気が軋むような気がした。主が笑った気配がする。
主の手が安定の頭を撫でる。久しぶりだから主も嬉しいのか、わしわしと激しく撫で回してきた。
「ふふ。僕は犬じゃないよ」
にこにこしながら安定は顔を上げると、もう何度目かの問いを主に投げた。
「ね、僕を愛してくれるのかい?」
そう言った瞬間、さっきよりはっきりと、空気が割れる音がした。
もしやと思い、頭に置かれている主の手にものすごい勢いで手を伸ばした。すると確かに、暖かいなにかを安定の手は掴んだ。
主の手にさわれた。
胸の中に熱いものが広がる。喜びと希望がいっぱいに溢れる。主と近づいているんだ。
安定はきつく主の手を握りしめた。
「主。僕のこと好き? ずっとここにいてくれる? 僕の声、聞こえてる?」
矢継ぎ早に質問を浴びせた直後、するりと手が抜けた。安定の手は虚しく空を掴んでいる。
ああ、まだか。まだ足りないんだね。
でも、努力は間違っていなかった。もう少しだ。もう少しで主は僕らのとこへ来てくれる。だって触れたんだから、引き摺り込むのももう少しでできる。
「主。待ってるよ。主が帰る場所はここだよ。早くその、ぱそこんとかいう液晶の画面を破って、げーむの世界に入ってきてよ。本丸で一緒に暮らそう。ただのげーむより飽きないよ!」
だから僕は、主の家はここだよって刷り込むためにおかえりなさーいって言うし、何度も愛してくれるのかい?って聞いて僕を愛してくれるように仕向けるんだ。
ぜんぶあなたを連れ込むためだ。
画面の前にいるあなたのことだよ。
カーソルが固まる。おや、不調かな。
おかえりなさーい、と、僕を愛してくれるのかい?のコンボで心を撃ち抜かれた、可愛い私の近侍。久しぶりのログインボイスが安定で、ニヤつきが押さえられない。開始早々のボイスがこれまた僕を愛してくれるのかい?だったので、あまりの可愛さに頭や顔をクリックしまくっているところだった。
唐突にカーソルが動かなくなってしまった。BGMは流れているから、フリーズしたわけではないだろう。
と、その時イヤホンから、安定のボイスが流れる。
「主。僕のこと好き? ずっとここにいてくれる? 僕の声、聞こえてる?」
ん。
なんだこれ。初めて聞いた。
新しいボイスが追加されたのかな?
逼迫したような声は妙に生々しく、鼓膜にまとわりついた。
気になるから、あとでネットで調べよう。
マウスを揺らしていると、しばらくしてカーソルは動くようになった。良かった。
安定の頭をもう一度クリックして、いつもの作業に戻る。任務を適当にこなして、ドロップ狙いのレベリング。
「あー…安定は可愛いなぁ。愛してるよ」
ぼそりと呟いた。こんな言葉誰かに聞かれてたら恥ずかしいね。
液晶の画面が白々しい光を放っていた。
「僕を愛してくれるって、言ったね」
いま、初めて、声が聞こえた。
安定は喜びを隠しきれない様子で、何もない虚空を見上げる。
頭を撫でる主の手は、いつも感触を感じるだけで、目に見えたことはない。でもさっき触れた。
そしていま、主の声も聞こえた。
主の姿を目に映して、耳元で愛してるって言ってもらって、直接撫でてもらえる日はきっと遠くない。
笑い出したくなった。
ここがげーむの中だって僕ひとりしか知らなくてももういいや。辛いけど、もうすぐ主が来てくれるなら耐えられる。
はやくこっちに来て、僕を愛してね。
主。
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