「長谷部が無茶苦茶になる話」というリクエストで書いた話です。

 俺は主のためならばこの身が砕け散ることなど何とも思わない。本当にそう思っているんだが結局最後まで告げることはできないんだろうな。

「鏡よ鏡よ鏡さん。世界で一番かわいいのはだあれ?」
「はい。それは主ですよ」

 いつかお伽話で見たこのやり取りを主はひどく気に入っていた。お世辞でもなんでもなく、ふくふくとした丸い頰や子供らしく湿った唇や、そのくせ打算めいて薄暗く光る瞳が、俺の目にはこの上なく好ましく映った。

「長谷部。お姫様のところには素敵な王子様が来るって、ほんと?」
「ええ。主が立派な淑女へと成長なされたころ、きっと貴女に相応しい御仁が現れるでしょう」
「ふうんどんな人かしら。それって長谷部のことじゃないの?」
「さあ、未来のことは俺にも分かりません」

 白々しい笑みを浮かべると、鏡の向こうで主は餅のように頰をふくらませた。本気でへそを曲げたのではなく単なるご愛嬌だということは明らかで、甘えたように眉を下げてこちらを見つめる様は、他人の目に己がどう映るか分かっているのだ。本当に可愛らしいお方だ。この時代、過去の時間で幼少期の主に出会わなければ知ることのなかった一面だった。



 22xx年、時間戦争の真っ只中に呼び出された俺が奇妙な肉体生活をはじめて一年たったころ、「長谷部にしか頼めない任務がある」と主に言われた時には、舞い上がるような心地だった。
 へし切長谷部という刀が、堅物だの鉄面皮だのと誤解を受けやすい性質であることはよく知っている。良くも悪くも執着が強い刀として、審神者界隈では有名であるらしく、事実、俺を顕現したときに主は息を飲み、なんとも複雑そうな顔で俺を見た。さすがにこの時は憮然とした心地になったものだ。俺はそんなに扱いづらい刀ではない。癖はあるかもしれないが主人への忠誠が厚いほうだと自覚している。
 しかし当時、主は就任して間もないようだったので、刀への対応に不慣れなところがあっても仕方ないだろうと己を慰め、警戒心を解きほぐすためことさら丁重に振る舞ったが、なかなか心を開いてはくれなかった。
 主との溝を感じ続けて一年、俺の忠臣ぶりを遺憾なく発揮する機会はないのかと諦めはじめたところで、極秘任務のお声かけがあった。聞けば、過去なる時代の主要人物の護衛だという。単身で長い長い遠征に行ってもらうことになるが、それでもいいか。申し訳なさそうに告げる主に二つ返事でうなずいた。なぜ俺にしか頼めないのか、理由は不明だが、極秘任務を任せてくれるほどの信頼を賜ったと考えていいだろう! 浮かれる俺の目に、妙に緊張した面持ちの主の顔が映った。

「無事で帰ってきてね」

 主の瞳は見たこともない色に震えていた。普段は気丈で冷静な方なのに。危険な任務なのだろうか。主が俺を必要としてくれている、そう痛感すると蛮勇じみたやる気が漲り、絶対に任務を全うして帰って来なければと誓う。不安に思うことはありませんよ、と微笑んで手を握る。彼女の手は予想以上に熱く、柔らかく、なぜか胸に迫り上がる思いがあったのだが、その時の俺にはうまい感情の表現が見当たらなかった。

 今回の任務に関して、約束はふたつ。
・誰にも未来の話をしないこと
・己の正体を明かさないこと

 こうして俺は、たった一人過去に送り込まれ、刀剣男士としての正体を隠したままある人間の護衛を務めることとなるのである。



 鏡よ鏡よ。

 主は手持ち無沙汰になると俺が入っている手鏡を弄る。
 まさか主要人物の護衛というのが、幼少期の主のことだとは夢にも思わないだろう? しかも、依り代として小さな鏡に入れられて、肌身離さず持ち歩かれる羽目になろうとは。

 俺が遠征先に指定されたのは、もとい、現世に降ろされたのは、主の五歳の誕生日だった。
 誕生祝いの品として、祖母が用意した袋の中に俺はいた。正確には、手のひらほどの華やかな千代柄の袋に入った鏡の中に。一目で上質な代物だと分かったが、この年頃の子供にとっては、アニメに出てくる魔法の杖やキャラクターグッズのほうが何倍も魅力的だろう。線香の匂いが立ち込める和室に転がり、主はもらったばかりの辛気臭い品を一瞥し、すぐにでも投げ出してしまおうと手を構えたが、その瞬間に俺は声をかけた。

「主、お待ちください」

 ちいさな肩の動きが止まる。大きく見開いた目が手の中の鏡を見つめる。俺が鏡越しに姿を現すとますます黒目をまん丸にして、鏡を目と鼻の先に近づけるので笑ってしまった。物怖じしない様子が愛らしく、それでこそ我が主君、小さいながらに肝が座っていると頼もしくなる。

「だれ?」
「お初にお目にかかります。今日から貴女にお仕えする…、ええと、守護霊のようなものです」

 刀の付喪神であると口走りそうになったが、正体を明かしてはいけないことを思い出し、もっともらしい言葉で逃げる。現状、刀というより鏡の付喪神になっているしな。

「鏡の守り神さん?」
「ええ。そうです。これからは俺が主のことをお守りしますよ」
「アルジってなに?」
「持ち主のことですよ」

 あんまり近くで話しかけるものだから、吐息で表面が曇ってしまう。さっきとは打って変わって目を輝かかせながら鏡を見つめている主に、俺は苦笑しながら一歩後ろに退いた。肌が触れるなんてことはあり得ないが、いくら子供とはいえ主と鼻を突き合わせてしまうのは居た堪れない。

「すごい。本当に鏡の中に神様がいるんだ」

 声を弾ませて身を起こし、祖母へ確認しに行こうと足を踏み出した主を慌てて止める。己の存在が明るみに出たら色々と面倒だ。

「お待ちください、主。俺の存在を他人に教えると、俺は消えてしまうのですよ」
「えーっそうなの?」

 適当に思いついた嘘だったが、神妙な顔で訴えれば五歳の子どもを信じ込ませるには充分だった。

「ええ、だから俺のことは二人だけの秘密です」
「ひみつ! 分かった。私と守り神さんだけのひみつね」
「ああ、俺のことは守り神さんではなく、長谷部とお呼びください」
「長谷部? へんな名前。神様っぽくないね」

 首を傾げ、はせべと繰り返しつぶやく。確かに近所にいそうな人間の苗字ではある。不本意だが、へし切長谷部または長谷部国重という呼び名を教えてしまったら、俺の本性が刀であると気づかれる確率が高くなる。主はまだ幼いが、聡明な方でおられるので、自分で書物を漁って俺の本性に辿り着いてしまう可能性もじゅうぶんに考えられた。

「長谷部。それじゃああなたがこれからわたしのことを守ってくれるのね!」
「ええ。貴女のそばにいる限り、悪しきものから守りましょう。これからは片時も離さず俺を連れ歩いてください」
「春になったら小学校へ行くの! 鞄に紐をつけてあなたのことも連れて行ってあげる」
「それは楽しみです。小学校とはどんなところなのでしょうか」
「知らないの? 小学校は幼稚園と違って、先生が勉強をおしえてくれるんだよ。お弁当じゃなくて給食も出るんだって。家にいてばかりで退屈しているから楽しみなの」

 ああでも、これからは長谷部が話し相手になってくれるから寂しくない! と、満面の笑みで鏡を掲げた主の無邪気さに忠誠ではないなにか別の感情が揺り動かされた気がして、黙って微笑むことしかできなかった。



 俺は鏡の中から出ることは叶わなかった。だが、手鏡の中から別の鏡の中へと移動することは可能だとまもなく気づく。中学生になった主が親に頼んで買ってもらった大きな姿見に、長谷部もおいでと言われて隣に並ぶと彼女は大袈裟にはしゃいだ。今まで俺の姿はせいぜい上半身が映るくらいにしか見えていなかったのだ。膝下まであるカソックとストラを変な服!と指差して笑い、自分の頭のてっぺんから水平に手を動かして俺との身長差に驚いたりする様がなんとも愛しく、数年前より成長した子どもの背丈を微笑ましく思った。
 戦争が長引くにつれ、歴史改変軍は戦法を変えていた。時間を遡って正史に働きかける以外に、審神者が力を持つ前に抹殺する、という汚い手口を使うようになったのだ。俺が幼少の主の護衛を任されたのもそういう背景があった。
 彼女を狙う遡行軍の気配を感じるたび、俺は鏡の中で刀を抜いて霊圧を放つ。不思議な話だが物理的に斬り伏せなくとも邪は払えるらしい。石切丸などはこうして病を断ち切っていたのだろうか。付喪神とはかくも霊的であやふやな存在だなと思う。年々、植物が根を張るように着実に骨格を広げ、夏休みが明けるごとに目線を高くしていく人間の子どもを間近で見守っていると、よけいにそう感じた。

「化粧は校則で禁止ではないのですか」

 四角い鏡、誰もいない女子トイレの洗面台。年季の入った校舎ならではの薄汚いタイル床と覇気のない蛍光灯の光。唇になにかをべったりと塗りつけている主は露骨に顔をしかめた。

「ここどこだと思ってんの。セクハラ」
「貴女が俺を持ち運んでいるんですよ。不可抗力です」
「だからって鏡の中に出てこないでよ」

 念のために言っておくが周りに誰かがいないことは確認済みだったし、更衣室やら風呂場やら、主の尊厳を侵害するような場所で鏡に出たことはない。
 主は俺の小言に眉をしかめたきり、手を止めることはなく、幼い顔に渋面を作りながら唇に油のようなものを乗せていく。最近の彼女は休日になると鏡をのぞきこんで髪型やら化粧やらを念入りに整え、「おかしくない?」と俺に確認するのが常だったが、学校に化粧をしていくことはなかったのに。教師に注意されるのも先輩に目をつけられるのも嫌だから化粧はしないと言っていたはずだが、どういう心境の変化だろう。

「口紅、ではないですね。なんですかそれは」
「グロスよ。透明なタイプだから目立たないでしょ。このくらいみんなやってるわ」
「大衆の意見に流されてはいけませんよ。そもそも、化粧品を所持しているのが知られたら危ないでしょう」
「うるさいなあ、引っ込んでてよ!」

 ぴしゃりと声を荒げられ、渋々制服の内ポケットの中の手鏡に戻る。この年頃の少女は化粧などしないほうが余程可愛らしいのに。どうして背伸びをしたがるものなのだろうか。どうも、話を聞いていると主には気に入っている男子がいるらしく、そいつの気を引くために色々と手を尽くしていることは明らかだった。小学生の頃はお伽話ごっこをして俺に理想を抱いていたようだが、やはり同年代の男子のほうが興味の対象になるのだろう。健全な成長だと思うが悔しいというか歯痒いというか。どこぞの馬の骨に大切な主を任せられるものか。俺が苛立っている殺意が漏れているようで、ここ数ヶ月、遡行軍の影はなりを潜めていた。
 口うるさい親も長谷部も嫌いだと言って主は拗ねるようになった。反抗期というやつだろうか。機嫌が悪くなると自室にある大きな姿見に布を被せ、手鏡を裏向きにして、俺との繋がりを遮断する。視覚が断たれたところで主を守るのに支障はないが、こうも露骨に距離を置かれると胸が痛くなる。ああ、全く、ここに来る前に思春期の子供との付き合い方の本でも読んでおけばよかった!
 とはいえ彼女にとって俺が一番の理解者であることは間違いないらしく、数日間へそを曲げたあとつっけんどんに「長谷部、出てきて」と言い放ち、俺がすぐさま姿を現わせばほっとした顔をする。己が仕える主に、ましてや未成熟な子供に、暴言を吐かれたところで痛くもかゆくもない。俺の存在は不安定な子供の心に安心感を与えているようだった。

 俺は主のすべてを知っていた。
 友人との関係に悩んでいる時も、はじめて恋人を作った時も、親と喧嘩になって家を飛び出した時も。
 月の明るい夜だった。主は通学路にある川原に腰かけ、休息をとっていた。大きな鞄にはいつもの教科書ではなくたくさんの着替えと化粧品と、ありったけの小遣いと、充電器が入っている。水の流れる音がする。街灯は遠いが、満月の光がじゅうぶんに辺りを照らし、静かに波打つ川の表面や奥に光る苔が見て取れるほどだった。
 水面に、不機嫌な顔をした娘が映る。怒りよりも途方に暮れている表情だと知っていた。
 定位置の胸ポケットから抜け出して、主の横に並ぶ。真ん丸の月が浮かぶ川の中に、俺と主の姿が揺れていた。

「疲れたでしょう」

 主は返事をしなかった。二人で何も言わず水面を眺めていた。数分経った頃、ふいに主が靴を脱ぎ、ソックスを脱ぎ、白く光る素足を水面にさらした。細い魚のような足が水流を分かち、しかし何事もなかったかのように川の流れは再開する。

「冷たくて気持ちいい」

 素直な感想だが、緊張が張り詰めた声だった。誰より近くにいる俺は知っている。ありふれた親子喧嘩でも、主の胸に湧いたのは純粋な殺意だった。子供は不便な存在だ。感情は爆発的で尖っていて、けれどその苛烈さを真剣に受け止める大人は少ない。そして衝動的に家を飛び出したものの、一人で生きていけると信じこめるほど彼女は幼くなかった。

「どこへ行きましょうか」
「わからない」

 十代半ばの少女の声は心細く響いた。

「家へ帰るのもひとつの選択肢ですよ」
「……」
「それとも、線路沿いに隣町まで歩いてみましょうか。月が明るいので迷子にはなりません」
「……」
「それか、この橋の下で川を眺めながら一夜を明かすのもいい案だと思いませんか」

 夏の虫の鳴く声が聞こえる。涼しい夜だ。野外で越せないこともないだろう。草の生い茂る絨毯に身を隠して休むのは造作ないことだ。うつむいた主の前髪が顔を隠し、鞄を抱く腕の力が強くなる。

「主」

 水鏡の中、彼女に寄り添うように手を伸ばす。

「あなたがどこへ行こうと、俺は共にありますよ」

 主の頬は濡れている。くしゃくしゃに歪んだ顔が俺を見る。ごとりと鞄が転がって石の上に落ちた。

「長谷部。出てきてよ」
「申し訳ありません。俺は鏡から出れないのです」
「いつも一緒にいるくせに、どうしてそばに来てくれないの」

 駄々っ子のように叫び、嗚咽を上げる主。胸が引き裂かれるように痛み、同時に、安心していた。彼女の心の拠り所が自分であることに。俺は主の背中に回り腕を広げた。見てくださいと囁く。主は濡れたまぶたを何度もこすりつつ顔を上げる。幼さを残した瞳が黒く光り、隣に並ぶ俺の薄紫の瞳を見つめた。数秒。川の流れが止まったかのような錯覚に陥る。鏡の中で俺は主を背中から抱きしめる。重なった二人の姿が静かに揺れる。

「ずっとお側にいますよ」
「知ってる」
「いつか鏡から出て、直接お目にかかります」
「本当?」
「ええ、必ず」

 審神者になった彼女にあいまみえる日はそう先ではないだろう。正体を明かし、刀剣男士として口上を述べる日が楽しみで仕方ない。子どもの成長を見守ったのが俺であること、彼女の未来が約束されたものであることを思うと、あたたかな桜の芽吹くような気持ちが心に広がっていく。

「約束だよ。絶対にそばにきてね」

 力強くうなずくと、主はおそるおそる手を伸ばした。水鏡の中で俺の腕がある場所に手を置き、はにかんだように微笑む。触れていないのに体温を感じるような気がして、体が熱くなる。任務が終わったその日、彼女を直接この腕に抱きしめようと誓った。
 夜が更けていく。穏やかな闇が二人を包む。川のせせらぎを聞きながら露草の上に体を横たえて主は目を閉じた。明日になれば家に帰りましょう。何年も共に過ごした俺たちの家へ。



「明日は合格発表ですね」

 目が痛いほど真っ白な空から綿あめの切れ端が降り積もる。辺り一帯の音を吸い込んだ雪は柔らかく、ふかふかの絨毯みたいだった。主は傘に積もった粉雪を落とし、手鏡に向かって微笑む。自信のある笑みだった。第一志望に合格すれば春から一人暮らしの予定で、気の早い主はすでに引っ越しの準備を進めていた。

「大学にも長谷部を連れて行ってあげる」
「楽しみです」
「合格したら新しい姿見を買ってもらおうかな」
「主の背も伸びましたからね」

 普段なら街中でこんなに俺と話すことはないのだが、この日は深雪のためか人の気配が少なかった。すれ違う人間もおらず、他人の目を気にせず堂々と手鏡を外に出し会話をしている。穏やかな日だった。受験も卒業も終え、長い春休みに入った高校生の終わり。この時期にしては珍しい雪は、主の門出を祝っているようだった。

「立派になられましたね」

 卒業式の晴れ姿を思い出すたびに涙ぐみそうになる俺を「おじさんみたいなこと言わないで」と茶化し、さくさくと歩を進めていく。

「主は素敵な女性に成長しました」
「そういうの恥ずかしいって」
「いいえ、本当に。俺はあなたのことをずっと前から知っていますから」

 主が立ち止まって俺を見つめる。もこもこのマフラーと耳当てをつけた顔は寒さのせいか赤らんでいる。鏡の中まで寒さが伝わってくるが、天候に反して主は暖かな笑みを浮かべていた。その視線がかつてとは違う色を灯して俺を見つめている。友情とも愛情ともつかぬ、尊い感情に名前をつけなくていいことを、俺たちは知っている。
 雑誌の新刊を買いに行く散歩道、この時間がいつまでも続けばいいと思った。優しい雪が俺たちを隠すように舞い降りては肌の上で溶けていく。鏡を通して見つめ合いながらいつか直接会える日を夢想する。だから十字路の横から向かってくる大型車にぎりぎりまで気づかなかった。

 クラクションは鳴らなかった。ブレーキを踏むけたたましい音にはっとして顔を上げると、驚愕した表情の運転手と目が合った。雪は柔らかな絨毯から足首を掴んで離さないトラバサミへと変貌した。主の体は硬直し咄嗟の反応が追いつかないことは明らかだった。やけにスローモーションで迫ってくる重機の巨体が雪を舞い上げる。
 一瞬、厚い雲を割って陽光が射した。フロントガラスは薄く凍りつき、つるりとした表面が光を反射する。恐怖で立ちすくむ主の姿が映る。そう、まるで鏡のように。
 俺は手鏡から飛び出す。トラックのフロントガラスに飛び込む。運転手は画面いっぱいに現れた俺の姿に悲鳴をあげ、ハンドルをきる。ぎいぃぃとタイヤの軋む嫌な音が響き渡った。豪風。視界の端に主の髪が激しくなびくのが見えた。
 どすん、と物凄い衝撃と共にガラスが割れた。進行方向を変えたトラックは間一髪で主を避け、電信柱に衝突していた。
 よかった。心の底から安堵した。その瞬間、ばきりと嫌な感触が全身を這う。いつのまにか俺の依り代だった手鏡は主の手を離れ、タイヤの下敷きになって潰れていた。刀剣破壊のときと同じだ。全身にひび割れが広がり、もう戻らない。本体である日本刀は無事なのに、鏡が砕けて死んでしまうとは、俺は本当に鏡の付喪神になってしまったようだと苦笑した。

「主」

 力を振り絞って腕を伸ばす。ずるり。俺の体は不思議なことに冷たい空気を浴び雪を踏んだ。出れた。震える主が俺を見て目を見開き涙を浮かべる。一足進めるごとに体が砕けて霧散していくのが分かる。

「はせべ」

 帯刀したカソック姿の男はいまや全身ぽろぽろと金属の破片をこぼしている。俺は主を安心させるようにひび割れた頬で微笑んだ。そうか、これでお別れなのだ。きっと彼女は近いうちに審神者になるだろう。へし切長谷部という刀を知って、顕現して、過去の自分の護衛につかせて、そして同じ歴史を繰り返すのだろう。

「主、何も、心配することはありません。俺が貴方を守るから」
「長谷部!」

 主が手を伸ばす。あと少しで手袋の先に触れるという距離で俺の指先が崩れた。ガソリンの匂いが清潔な雪を汚していく。遠くサイレンの音が聞こえる。太陽はまだ雲のすきまから光を投げ、溶けかけた雪をきらきらと輝かせていた。俺の体も無数の粒子となって白い雪の粉に混ざっていく。あるじ、と最後に声だけが残った。

「生きて」

 肉体を失くしたとき、俺は世界の全てになった。割れた鏡の破片、散らばったガラス、天から注ぐ雪のひとかけら、全ての視点になって主を見ていた。だからそんな泣きそうな顔をしないでください。俺は主のためならばこの身が砕け散ることなど何とも思わない。本当にそう思っているんだ。本当にさ。
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