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鶯丸は本丸の城壁の外に追い出されていた。
目の前には、人間が何人集まって押しても動かないであろう重々しい門があり、それはきっちりと閉ざされている。周囲に目をやれば高い城壁がそびえ立ち、さらにその上には何重にもかけた強い結界が張られていた。壁を壊したりよじ登ったりして中に入ることは不可能である。

(さすがは俺の主。本丸が攻められないよう手を尽くしているな)

感心する鶯丸だったが、つまり彼が中に入る手段もないということである。

主の寝込みを襲ったのがバレて歌仙に殺されかけた鶯丸だったが、彼女の温情によりなんとか処刑だけは免れて、二度と顔を見せるな、捨ててやるという台詞と共に本丸の外にほっぽり出されたわけである。
怒り狂った歌仙は「どこでも好きなところへ行ってのたれ死ね。もし君の姿を再び見かけることがあったら今度こそ僕が首を落としてやる」と中指を突き立て鶯丸を閉め出した。主を襲ったのが鶯丸でなく他の刀剣だったら即刀解処分だったろうから、これでも鶯丸は愛されているほうである。
今までも迷惑をかけて怒られるのは日常茶飯事だったが今回ばかりは本気で怒らせてしまったらしい。彼女に嫌われてしまったかもしれないと思うと胸が痛んだ。しかしここは頭のおかしいマゾの鶯丸である、愛する主に見放された、捨てられたというショックは最高に興奮を掻き立てるものであり、閉め出されてからずっと自慰しまくっていた。辺りの草木に種付けしようかという勢いである。朝追い出されてから日が西に傾き、空が茜色に染まってきたくらいでようやく出す子種も枯れてきて冷静になり、事態の深刻さに気づいた。
彼女の言葉が本当なら鶯丸は二度と本丸に帰れないのである。謝ろうにも完全に中と遮断されたここからでは声が届かない。もしこのまま本丸に帰れず城の外をうろつくしかないのなら、いずれは主からの霊力供給が絶たれて鶯丸は刀の姿に戻ってしまうだろう。そうなるとお手上げだ、自分でどうすることも出来ない。何とかして本丸に帰る手段を見つけないと愛する彼女との永遠の別れになってしまうのである。オナニーしている場合ではないのだ。
そういうわけで今、鶯丸は城壁の周りを歩き、結界に穴がないか見て回っていた。

(見事な結界だなあ。これでは俺の力でも破れない)

恋人である彼女の抜かりなさ・優秀さに誇らしくなるが、ここは少々ミスがないと困るのである。諦めかけた鶯丸だったが、もうじき一周してしまうというところで一箇所、結界の脆くなっている部分を見つけた。

(おや。俺にとっては運が良かったといえばそれまでだが、危ないな。これでは攻撃されたら解けてしまうぞ)

脆くなったそこは、一太刀浴びせれば破れて侵入を許してしまいそうだった。それにしてもこの一箇所だけ不自然に脆くなっているのは異様である。誰かが外側から執拗に攻撃したのではないかと思われた。

(もしかしたら、本丸へ奇襲を目論む遡行軍が来てここを攻撃していったのかもしれない)

中に入ったらすぐ彼女に報告して修復してもらうよう頼もう。と思ったところで、帰ってきた鶯丸に対して彼女がどんな反応をするかを想像したら胸が苦しくなった。
今まで鶯丸は彼女のことを恋人だと認識していて、当然相思相愛だと思っていた。恋人関係を否定したり迫ったら嫌がったりするのは照れ隠しだろう。罵声や暴力も自分一人にだけ向けられるものだと思えば、皆が知らない彼女の一面を見せてもらえるようで嬉しかった。そこで被虐性欲に目覚めてしまったのは彼としても思いがけない穴だったが、こんな異常な性癖に付き合ってくれるのは愛があるゆえだと思っていた。
ところが実際はどうだったのだろう。今になって初めて、鶯丸は彼女との関係を疑い始めたのである。

(俺は自分の気持ちをぶつけるばかりで、彼女の望むことを何一つ理解していなかったんじゃないか)

そういえば、鶯丸は一日に何べんも主が好きだと愛を伝えているが、彼女のほうから好きだと告げてくれたことはない。怒鳴ったり殴ったりするのはプレイの一環と思っていたが、もしかしたら本当に嫌だったのだろうか。だったら今朝、一方的に発情して襲いかかって、今度こそ愛想を尽かされてしまったのだと理解出来る。
恋人失格だな…とうなだれる鶯丸だったが、実際はそもそも恋人同士ですらない。ないのだが、鶯丸の頭の中では初めから恋人関係が出来上がっているのでそこはもう話にならない。主はいい迷惑だが、こればかりはどうにも変えられない鳥の性だ。
泣きそうになりながら鶯丸は刀の柄に手をかける。

(それでも…帰りたい。もう一度彼女に会って謝りたい)

結界の亀裂に。刀を斬り込ませる。
しかし振り下ろした刃は別のものを切り捨てたのだった。

「不運に不運とは重なるものだなあ」

振り向いた鶯丸の向かい側には、仄暗い蒼色の邪気を身に纏った異形の怪物たちが並んでいた。足元に目をやれば、今しがた斬り捨てた蛇骨のような短刀が死を受け入れられずにビチビチと跳ねている。

「やれやれ。本当に、逃げてくれればいいのだが……」

なんというタイミングで奇襲をかけにきたことだろう。やはりこの不自然な亀裂は、彼らが侵入を目論んで傷つけたものらしかった。
こちらを睥睨する遡行軍の数を目で確認する。十体はいるだろう。いくら鶯丸の練度が高いとはいえ、この人数を一人で相手するにはあまりにも分が悪かった。
逃げてしまうのは簡単だが、ここで鶯丸がいなくなれば遡行軍は結界を破って本丸内に攻め込むだろう。奇襲されたからといって壊滅するような本丸ではないが、それなりの被害は受けることは予想出来た。それに万が一審神者である彼女に傷をつけられたら大問題だ。戦いたくないのはもちろんだが、彼女を害する存在の登場に立ち会わせた以上、見過ごすことは出来ない。
鶯丸はため息をついて刀を構え直す。

「まあなるようになるか…。行くぞ!」

孤軍奮闘であろうと最後まで彼女のために戦えるのなら刀冥利に尽きる。
西日を受けて緋色に輝く刀身がぶつかり合い、新緑の葉の上にぱっぱっと赤い飛沫が散った。





握り締めていた冷たい手がぴくりと動いたので、彼女ははっとして顔を上げた。うっすらと開かれた瞳はまだ覚醒していないようで、おぼつかない視線が主をとらえる。しばらくぱちぱちと瞬きを繰り返した後、唐突に彼はふわりと笑みを浮かべた。

「どうした主。随分と悲しそうな顔をしているな」

彼の手を握り締めていた主の手が震えだす。胸の内に安堵が広がると共に涙がこみ上げてきそうになってぐっと唇を噛んだ。
鶯丸は天井や周囲の壁を見回して、ここがどこだか理解したようだった。

「ああ、生きていたんだな…。こうして君のところへ帰ることが出来て良かった」

そう言って鶯丸は主の手を引き寄せ、弱々しい力で顔まで持っていくと自分の頬に擦り付ける。手入れで傷は完治したとはいえ、出血と共に流れ出た霊力の喪失のため、まだ体は十分に動かないようだった。

「ほんとに…無事で良かった」

遠征部隊が城門の前に帰着した時、すでに鶯丸は一回折れた後だった。
一度だけ刀剣の破壊を防いでくれるというお守り。それを身につけていた鶯丸はお守りの効力によって一度目の死を逃れたが、再び戦場に戻った彼には今度こそ本物の死が迫っていた。
長い遠征から城に帰還して早々、彼と遡行軍が激しい鍔迫り合いを繰り広げている光景に度肝を抜かれた遠征部隊だったが、すぐさま応戦に加わった。こうなれば形勢は逆転、またたく間に刀剣たちは遡行軍を一蹴し、無事に本丸を守り抜くことが出来たのである。
だが、たった一人で戦っていた鶯丸は今にも破壊してしまいそうなほど重傷で、戦いの終わりと同時にそのままぶっ倒れてしまったため、大慌てで仲間たちが手入れ部屋に担ぎ込んだのだった。

「一人で辛い思いをさせてごめんね、鶯丸」

主は胸を痛めていた。
結界が傷つけられていたことに気づかず遡行軍の襲撃を許してしまったこと、そして怒りに任せて彼一人を城外へ放っぽり出して結果的に撃退の役をさせてしまったこと、全てが自分のミスであり申し訳なくて仕方なかった。

「折れなくて本当に良かった…」

手入れ部屋に運ばれてきた半死半生の鶯丸がその手に破れたお守りを握り締めているのを見つけた時はさすがの彼女も泣いた。増援が来なければ、それを握ったまま折れるまで戦って死ぬつもりだったのだろう。

「……泣いてくれるのか? なら俺はまだ大事に思われてるのかな」

やや自嘲ぎみに呟いた彼の言葉に、不審なものを感じる。彼女の視線に気づくと鶯丸は気まずそうに笑った。

「いや、とうとう君に愛想を尽かされたんだと思ったんだ。俺は君が大好きなだけのどうしようもないクズで、迷惑ばかりかけて、君の優しさに甘えて好き勝手な行動をして、それで君がどう思うかなんて想像もしていなかった。こんなに好きなのにどうして上手く伝わらないんだろうと、そればかり考えて、肝心の君の気持ちすらまともに考えたことがなかった……。恋人失格だな。すまない」

一息に思いを吐き出し最後に謝罪を述べた鶯丸の声に涙が混じる。さっきまで頬に擦り付けていた主の手を自分の目元に持ってきて目を隠した。

「……鶯丸」

初めて見たしおらしい彼の姿に驚きを感じざるを得なかった。そっと、彼に掴まれている手を動かす。額にかかっていた髪を払って目元をのぞきこむと、涙ぐんだ目を必死に逸らして向こうを見ていた。その姿にわずかに胸がきゅんとする。

「…あのね、私も色々考えたの」

鶯丸を追い出し怒りに打ち震えながら精液まみれの布団を洗い、歌仙や他の刀剣に慰めてもらってようやく頭を冷やしてから。そして彼が本丸を守るために一人で戦い重傷を負って帰ってきてから。彼を失いかけて気づき、考え抜いて出した答えがある。

「やっぱり私は鶯丸がいないと嫌だ。困ったところもたくさんあるけど…ほんとクソみたいなところばかり目についちゃうけど、鶯丸は一番頼りになる刀剣だから、これからも一緒にいてほしい」
「…本当か? 俺は君の知っている通り自分勝手で思い込みが激しくて、君に甚振られて喜ぶ変態なんだ…。自覚したとはいえすぐに己の性質を変えることは出来ない。きっとこれからも迷惑をかける。それなのに、本当に君の傍にいていいのか」

彼女はつんと鶯丸の額を小突く。突然のその行動よりも、彼女がこの上なく優しく自分を見つめていることに鶯丸はきょとんとした。

「そこまで分かったならいいよ。少しずつ直していって。そのくらいの努力は出来るよね、私の『恋人』なんでしょう?」

言い終えるなり彼女の頬がだんだんと赤く染まっていく。やがて全体が真っ赤になって手で顔を覆ってしまったので、鶯丸は彼女の腕を引っ張って体ごと引き寄せ、顔を近づけた。

「わっ、ちょっと!」

驚いて手を外してしまった彼女の頭にちゅっと口付ける。撫でるようにするすると動かしながら、

「鳥が接吻するのは求愛でもあるが相手への献身の証でもあるんだ」

髪に額に頬に、軽く触れるだけのキスを落とす。今までのキスのすべてにその意味があったのだと知って、彼女はますます顔を熱くする。

「君の番いとして相応しい男になれるよう努力しよう。…被虐趣味も、君が嫌がるなら矯正するようにする」
「あ、そのことなんだけど、鶯丸」

実は彼女が考え抜いて出した答えの中に、鶯丸の性嗜好に対処するための算段もあった。

「思うに、今まで受け身だったから怖くて気持ち悪くて駄目だったんじゃないかと思うの」

言って、ためらいつつも彼女が取り出したのは、明らかに犬用ではない首輪と鎖、そして黒光りする鞭であった。それも所謂SMプレイで用いるバラ鞭とかではない、革張りの本物の馬上鞭だ。これで叩かれたら皮膚が破れるだろうと思われるが、なにぶんSMの経験も知識もない彼女にはそんなこと分からない、ただ馬小屋にあったから使えるかもと思って拝借してきたのだ。

「…今回の件で分かったんだけど、鶯丸が私以外の人の手で傷つけられるのはすごく辛い。鶯丸が痛がるところは見たくない。…でも、痛くてみじめな思いをしないと鶯丸が満足出来ないっていうのなら……私もちょっとがんばってみるよ……。恋人になるんなら、なおさら」

最後の言葉はかき消されるように小さく本人にしか聞き取れない声であったが、どのみち鶯丸には聞こえていなかった。感激のあまり勢いよく腕の中に彼女を囲い込んでしまったからである。

「ああ…! 俺の恋人は最高だな!!」

手放しで絶賛されてくすぐったいような気分になる。今までだったらこんな気持ちになることはなかった。これも彼女の心が前向きに現状を受け止めようとした結果で、これから新しい関係を構築するのには良い変化なのだろう。

「…相対的サドにはなれるよう努力するよ。だから、もう寝込みを襲ったりしないでね」

努力の方向性がおかしいような気がするが、彼女なりに懸命に絞り出した方法であり、精一杯の決断だった。マゾで変態の鶯丸に付き合っていくには自分がサドになるしかない、という発想の飛躍は若干恐ろしいと思うが、きっと上手くいくという確信めいたものが彼女にはあった。

(恋人面をされるのは嫌じゃないんだ)

それがどうしてなのか考えるのを放棄していた。自分にとって不都合な事実にぶちあたってしまうと心のどこかで分かっていたからだ。

(ちゃんと順序を踏んだ、ありふれた『恋人』になりたかったんだ)

ここまで来るのに長い時間かかったけど、色んなステップをすっ飛ばして裸を見たり精液かけられたりしたけれど、今から恋人として関係を築いてみよう。


「これからよろしくね。鶯丸」
「ああ。これからも、だ。最初に出会った時から今までずっと愛している。そしてこの先もな」

鳥の口付けが頬に、額に、幾度となく降りかかる。柔らかく擽るようなそれを満更でもない気持ちで受け入れながら。

(人間のカップルは唇同士でキスするんだよ)

と教えるのは、もう少しちゃんと恋人関係を構築してからでいいと思った。

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